【本】17036『佐藤優さん、神は本当に存在するのですか? 宗教と科学のガチンコ対決』竹内久美子, 佐藤優

投稿者: | 2017-03-13

キリスト教徒であり、宗教学や哲学を修め、知の巨人と言っても良い佐藤優。それに対して、動物行動学の竹内久美子氏との対談である。

当初は佐藤優の聖書解説が続くが、後半になるにつれて竹内氏の動物の事例紹介が出てくる。
対談を重ねるにつれて、聖書へのツッコミも鋭くなるようで、面白い。

とはいえ、後半は聞き読みしていたので、ハイライトが残らず残念。
佐藤優氏の言うように、宗教が消滅しつつあるいま、動物行動学や進化論的な考え方を勉強することが、人間社会の原点を評価することにつながり、新しい価値観を生み出せるのではないだろうか。

布教の要諦は、今まで手付かずだった層にまで拡げることなんだから。 竹内 それでイエスは娼婦とか最下層の人たちとか、いわゆる底辺の人まで受け入れた

合理主義、啓蒙主義では解決できない問題が現実の世界に出てきたから。 竹内 何ですか、それは? 佐藤 第一次世界大戦です。一九一四年から、あの戦争で使われた大量殺戮兵器が近代合理主義を行きづまらせたわけです

第一次世界大戦の直前って、どの国も戦争をしたいとは思わなかったし、科学技術に関しても人類の幸せにつなげられるはずだと思っていた。誰もが理想的な社会をつくりたいと願っていた。そこに起きたのが第一次世界大戦で、結果、合理主義も啓蒙主義も大きな疑念の下にさらされてしまった。等しく平等であると考えられていた個々の命が、大量に、しかも短期間で失われたわけですからね。これで人類の認識が大きく変えられまし

、事実の問題として、変わったんです。ハイデガーの実存主義哲学も出てきたし、文学も傾向が変わったし、あるいは量子力学のような発想が、ゲーデルの「不完全性定理」とほぼ同時期に出てきた。何事も、確実だったものが確実と言えなくなったんです

結局、民衆という切り口で戦争を論じることはできないと思う。戦争を論じるときは、どうしても国家の切り口で論じるしかないわけです。ただ、共産主義者は別ですよ。階級的切り口で見ますからね

ユニテリアンの「ユニ(単一の)」はイエスと聖霊を認めなくて神だけを認めるからですね。三位一体ではなくて

ユニテリアンはイギリスにはあまり多くなくて、アメリカに多いんですけどね。CIAの職員やアメリカの従軍牧師はほとんどユニテリア

アメリカの大統領は「神に懸けて」とは言うけど、「キリストに懸けて」とは絶対に言わないでしょ。あれもユニテリアンを意識しているか

誰がやっても同じ効果なら、そこには神の手が働いていないことになるから、神学的にはとても認められないわけです。忌避反応がある

シュライエルマッハーという非常に頭のいいドイツのプロテスタント神学者が「神は心の中にいる」と、神の場所を転換したわけです。そう考えれば、近代的な世界像とのあいだには何の矛盾もなくなっ

定住するから抗争が起きるんです

キリスト教徒は人生に苦しいことがあると、この話から何かを汲み取って元気を取り戻すんですよ。試練にはそれなりの意味があるし、悪いことをしていないなら謝ってはいけない、と。だから日本人と違って、欧米の人はトラブッてもなかなか謝らないでしょう。 竹内 キリスト教圏の人たちにとってはヨブ記を読むのと読まないのとでは、人生の苦しい局面に立たされたときに、選択が変わってくるんですかね

佐藤 動物では、支配と引きかえに支配する側には重い役割が課されているのに、人間の国家の場合は著しく非対称なんです。戦争するとき、非対称──つまり国民に何の見返りもないと士気にひびくので、戦争に勝てないですよね。だから戦時だけは分配率が平等なんです。反対に、平和な期間が長くなると格差がどんどん広がる。現在の格差の広がり方は、相当に非対称だといわざるを得ないですね

動物行動学では自分の命を捨ててまで、あるいは、もう一人子どもをつくれる機会を犠牲にしてまで、他個体に尽くすことを「利他行動

佐藤 『楢山節考』の姥捨山の例もありますからね。モーセだって、一定の年齢に達したときに自ら死に場所を求めている。旧約聖書の「申命記」に描かれたモーセは、約束の地を目前にしながら神の許しが得られないがために山に登り、百二十歳でこの世を去っています。迷惑をかけてはいけないと、それぞれ、自分を生かしてくれた共同体のことをきちんと考えているんです。 竹内 共同体の邪魔になったときが自分のいのちが果てるときだと。 佐藤 はっきり言うと、自分の存在が、血族のためにならなくなったときですね。聖書が生まれた世界である砂漠の環境はシビアですから

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