【本】17032『テクノロジーは貧困を救わない』外山健太郎

投稿者: | 2017-02-17

筆者は、元マイクロソフトのコンピュータ技術者だ。
インドなどでテクノロジーの導入をすすめていくうえで感じた疑問点を綴っている。

昨今の公衆衛生などでは患者の行動変容についての研究が進んでおり、経済的なインセンティブを与えてがん検診の受診率が上がった、などという研究内容がある。
これに基づき、途上国でも経済的なインセンティブを追加して介入するというパッケージが実施されることもある。

しかし、筆者はこのような介入パッケージには否定的である。
そもそも、途上国でのフィールド研究をするうえで、研究者の介入を通じて、スタッフの意識や技術の向上など、目に見えない恩恵があったはずである。
そのような測定不可能な要素を無視した、介入パッケージだけを他の地域に持ち込んでも、実態に合わず失敗したり、むしろ悪影響を与えることもある。
教育の例がよくとりあげられているが、日本でもよくある例は、小学校でiPadを配ったことによって生徒がゲームをしてしまう、というのもこの一例である。

筆者は、このような介入パッケージに頼るよりも、教育を通じてより内面的な意識改革をすることの方が重要だと述べている。

この意見には賛成だ。特に、発展途上国のモチベーションの高い子供たちには有効だろう。
しかし、ボトムアップ、多数へのアプローチという点では、介入パッケージの優位性もあるだろう。
例えば、ビタミン欠乏や二分脊椎予防のために、食品への葉酸やビタミンの添加などが行われる。
これも、本来は教育を通じて食生活を変化させることが先決だろう。その方が、ビタミン欠乏以外の健康意識を向上させ長期的な効果が見込まれる。
しかし、各自の理解度にあわせて教育プログラムを組むのは(政府にとっては)負担となる。
このため、食品への添加など、ある意味乱暴な手法がとられるのだろう。

長期的な影響が見込まれる、汎用性のある理解力を育てるためには、教育が重要なのは言うまでもない。

「ビジネスで用いられるどのようなテクノロジーにもあてはまる第一の法則は、効率の良い業務を自動化すれば、効率がさらに良くなるということだ。第二の法則は、効率の悪い業務を自動化すれば、さらに効率が悪くなるということだ」

私たちの立場はみな同じだ。一部の人々が「WEIRD(変人)」──Western(西洋の)、Educated(教育を受けた)、Industrialized(工業化した)、Rich(裕福な)、Democratic(民主的な)──と呼ぶひとつの見方を共有している

だが、「低所得地域の学校にパソコンとインターネット接続を与えることそれ自体、こうした学校が直面している深刻な教育上の問題の解決に役立つことはほとんどない。機材を配置することに気を取られてほかの重要なリソースや取り組みから注意をそらせてしまうという意味では、このような取り組みは実際には逆効果にさえなりかねない」(15)。

テクノロジー単体では、社会的無気力も心理的無気力も打破することはできなかった。

タンザニアの医療従事者を対象とした調査では、ショートメッセージの通知機能があれば患者への訪問回数が増えることがわかったが、生身の上司が監視しているのが前提だという

インターネットはそれ単体では何も変えることができない」とアガーは私たち

プリンストン大学の経済学教授ウベ・ラインハルトはこう言った。「支出される医療費の一ドル一ドルが、誰かの医療所得になる」(10)。

インターネットの利用者たちは、同様の考えと同様の価値観を持つ相手との交流を図ることができる」が、価値観が異なる相手との交流は減らしていくのだそうだ(18)。アルスタインとブリニョルフソンはこの現象を「サイバー小国乱立化」と呼び、心理学者たちは「選択的接触」と呼んだ(19)。

一般的に言って、テクノロジーがいい結果を生むのは善良で有能な人間の力がすでに存在する場合だけなの

私たちは介入パッケージに大規模な成果を求めるが、介入自体はほかのものに依存している。それは個人や組織における前向きな意志と高い能力という基盤だ。しかもこの基盤は、社会問題が根強い地域ほど不足しているものでもある。

それほど重要であるにもかかわらず、実施者が評価されることはめったにない。称賛は現場にいるグラミン銀行の職員ではなく、ユヌスのような指導者個人に与えられるのだ。

秘伝のソースはプログラムの詳細ではなく、実施者のほうなのだ。

世界中のマイクロクレジット組織から財務情報を集めている「マイクロファイナンス・インフォメーション・エクスチェンジ」によれば、二〇一二年には一一六一のマイクロクレジット機関が低中所得国の九二〇〇万人に融資をおこない、その総額は九四〇億ドルにのぼっていた(47)。

う。あるひとつの手法が唯一のパラダイムになり、社会的変化にとって何が正しいかを決定することはありえない。問題はRCTそのものではなく、その結果を不注意に解釈してしまうことだ(19)。RCTは、プログラム評価の道具箱に入っているすぐれたツールのひとつにすぎない。

考える「スラックティビスト」〔「怠けるslack」と「行動主義activism」を掛け合わせた、労力を伴わずに社会運動をする人々を指す造語〕たちに向けた、人を小ばかにした宣伝

「ヘドニア」〔感覚的な幸福〕と「エウダイモニア」〔自己実現や生きがいを感じることで得られる幸福〕の区別の基礎となっている。快楽を追求するヘドニア的幸福には疑問の余地があるが、長期的なエウダイモニア的幸福は良い、

測定に対する異常な執着

測定は、進歩を検証する上で間違いなく役に立つ。だが測定可能な要素を崇拝するあまりにほかの重要な資質を忘れてしまうという危険がある。

●意義より測定──数えられるものだけを評価せよ。 ●質より量──何百万人もに影響を与えることのみをせよ。 ●根本原因より究極目標──成功を保証するべく、最終目標のみに焦点を絞れ。 ●経路依存より目標主義──歴史や概念は無視し、目標へとひと跳びに向かえ。 ●内的より外的──他人が変わることを期待してはならない。代わりに、彼らの外的環境のみに注力せよ。 ●実証済みよりイノベーション──過去にすでにおこなわれたことは決してしてはならない。最低限、新しくブランド化をせよ。 ●英知より知性──地道な努力ではなく、賢さと創造力を最大化せよ。知性と才能を活用して尊大さや身勝手さ、未熟さ、階級主義を正当化せよ(階級主義とはあらゆる種類の社会的階級に基づく乱用、屈辱、搾取、または征服を指す)(57)。 ●価値没頭より価値中立──価値中立をよそおって、価値観や倫理を回避せよ。 ●集団主義より個人主義──競争を効率性につなげよ。自己満足と腐敗のもととなる協力は回避せよ。公益のための妥協も含めたすべての自己表現の阻害は、抑圧と同じである。 ●責任より自由──多く選択させろ。選択時に判断させるな。自由を抑えて、責任を促進するのは、専制に等しい。

外部から持ちこまれた介入パッケージはコミュニティ自身の能力をそこなってしまい、独立した、生産的で、隣人愛にあふれた市民を育てることにはつながらない。

テレセンターの支持者たちが支援したい低所得・低教育の人々こそ、あいまいな知識や匿名のコミュニケーションを通じて自力で貧困から脱出できる可能性がもっとも低い人々だったのだ。教育を受けた個人起業家でもちゃんとした教室教育を好み、医師と直接顔を合わせられる診療を求め、血の通った先輩からの農業指導を欲しがった。こうしたことすべてが、テレセンターには欠けていたのだ(7)。

デジタル・グリーンでは、「増幅の法則」の好ましい影響が見られた。貧しい、識字能力のない農家に動画を見せること自体にはあまり意味がない。だからテレセンターを通じて提供された農業コンテンツはほとんど活用されないわけで、インドの公共放送で流される番組はほとんど効果を出せないのだ。だが同じような農家仲間や農業指導員との直接の交流は農家を動かすことができる。デジタル・グリーンの動画はこの人対人の交流を増幅し、より記憶に残るようにすると同時に、より実践可能にした。

第一の原則──目標に合った人的能力を特定するか構築すること。デジタル・テクノロジーを使わなくても、グリーン財団は農家にかかわり、彼らを支援する能力があった。介入パッケージでプラスの効果を上げるには、増幅できるプラスの人的能力が必要となる。 第二の原則──適切な人的能力を増幅させるために介入パッケージを活用すること。ガンジーは、グリーン財団がすでにやっている活動を見て、その活動を増幅させるためにテクノロジーを活用した。また、組織化されていない社会的傾向の影響を増幅させることも可能だ。たとえばケニアでは、「Mペサ」と呼ばれる携帯電話を使った送金システムが都市部から地方への現金の流れを大きくしたことが有名だ。これは、都市部への出稼ぎ者たちが故郷に仕送りをするという文化がすでにあったからこそ成功した例だ(12)。 第三の原則──介入パッケージの無節操な普及は避けること。デジタル・グリーンは、農家との関係を築いている強力なパートナーなしでは機能しない。そしてデジタル・グリーンは、パートナー組織が経験のない分野、たとえば子どもの教育などには手を広げない。テクノロジーを広めること自体を目的とするのは、リソースの無駄遣いだし、逆効果となる場合も多い。

一方、デジタル・グリーンはスタッフやパートナー組織が農家との関係を構築し、適切な農業技術を特定することに多大な努力を費やしている事実を痛烈に自覚している。うまく実施された介入パッケージすべてに言えることだが、デジタル・グリーンも、変化の一番の要素である人的能力を最大限に活用している(16)。

ネルソン・マンデラはあるときこう言った。「教育は、世界を変えるために我々が用いることのできる最強の武器である」。

女の子が学校で一年間教育を受けると、乳児死亡率が五─一〇パーセント削減できる。五年間の初等教育を受けた母親のもとに生まれた子どもが五歳以上まで生きられる確率は、四〇パーセント高くなる。中等教育を受けた女性の比率が今の倍になれば、出産率は女性一人当たり五・三人から三・九人にまで減少する。女の子にもう一年余分に教育を受けさせれば、彼女たちの賃金は一〇─二〇パーセント増加する。女性の教育向上により、生産性の高い農業手法が生まれ、栄養失調が四三パーセント減少することを示す証拠がある。また、女性に教育を受けさせることには、男性が教育を受ける場合よりも子どもの教育に大きな影響があることが示されている。ブラジルでは、子どもの健康により影響をおよぼすのは男性の教育よりも女性の教育のほうが二〇倍高い。地方の若いウガンダ人が中等教育を受けると、HIV陽性になる可能性が三分の一になる。インドでは、女性が公教育を受けると、暴力に抵抗するようになる可能性が高まる。バングラデシュでは、教育を受けた女性は政治集会に参加する可能性が三倍高まる(38)。

しばしば見落とされるのは、すぐれた教育が心、知性、意志にもたらすことのできる、より深い変革だ。

現代の社会政策は戦略的に置かれたコインのようなもの──「行動変化」を引き起こす小技やナッジ──ばかりに執着する(16)。だが行動変化は、行き当たりばったりにテクノロジーをばらまくよりは有意義な目標には違いないが、結局は短期的なものだ。

生涯続く内面的な力が成長をもたらしうることを認める彼らの考え方は、現在の超短期的な政策決定への代替案を提示してくれる。

マズローは「自己実現だけでは十分ではない」ことにも気づいていた。「自己超越」とでも呼ぶべき、もうひとつの階層があることを示唆していたのだ(28)。自己超越は「他者のための善行」に、無私と利他的行為に、人を向かわせるものだ。

経済成長の原因がキリスト教でもヒンドゥー教でも儒教でもなかったことは明らかに思える。人間の中には、適切な状況において、単なる生存と安全以上のものを求めさせる働きをする何かが存在するのだ。人には、生産性と自己表現に対する内面的願望が備わっているのだ。

一九七七年、アメリカ人の三分の二が女性は家庭の外で働くべきではないと考えていた。二〇一二年、そう思っているアメリカ人は三分の一未満だ(12)。一九七〇年代、フルタイムで働く女性の平均収入は男性の六〇パーセントに過ぎなかった。二〇一一年、それが七七パーセントにまで上がった(13)。

こうした変革が介入パッケージを通じて実現したのではないことははっきりとわかるはずだ。中には、家電や避妊技術のおかげで社会における女性の役割が改革されたのだと主張する者もいるかもしれない。だがこれらの発明は、書籍業界におけるアマゾンの影響と同様、加速と増幅の要因ではあったものの、主たる原因ではなかった(15)。

一世代前なら、安定した職は一律に成功の頂点とみなされただろう。大卒者は医師、弁護士、政府の役人になりたがったものだ。今では、経済的安定ですらその魅力を失っている。特に野心的なIIT卒業生は、大企業を辞めて自ら会社を立ち上げるようになった。より大きな承認、達成、自己実現を求めているのだ。

フランク・ルンツは、「二〇二〇年世代はうまくやりたいと思うと同時に、いいことをしたいとも思うだろう」と述べている(42)。彼らの多くが、富裕層のX世代から生まれた子どもたちだ。X世代は経済的に安定しているだけでなく、一定の社会的地位と自己実現を提供できることが前提となっている世界で育った世代だ(43)。彼らの親たちはすでにやりたい仕事をやれていたので、前の世代が経済的安定は保証されているものと思って育ったのと同様、この世代も満足できる仕事が保証されているものと思っている。今彼らが感じているのは、自己超越のための初期の願望なのかもしれない。

Pocket