「代表的日本人」と同様に、明治維新後に列強諸国へ追いつこうとしていた日本のなかで、日本人の価値観について世界に発信した名著だ。
“日本の学校では宗教教育がない”これは西洋人には理解できないそうだ。なのに、日本人は秩序だっている。
この疑問の答えが武士道であると新渡戸は主張する。
・武士道と宗教の関係について
“仏教Buddhismから始めよう。 仏教は、運命に対する穏やかな信頼、避けられない事柄を心静かに受け入れ、危険や災難を目にしてもストイックに落ち着き、生に執着せず、死に親しむ心をもたらした。”
“仏教が武士道に与えなかったものは、神道Shintoismが存分に補った。他の宗教では説かれることのない主君に対する忠、祖先への崇拝、親への孝は、神道の教義によって武士道に注入された。これにより、サムライの傲岸不遜な性格に謙譲の念が生まれたのである。”
武士はスキルを卑しい物として嫌った。世襲制度を守るうえで能力主義をとらなかったのだろうと思うが、新渡戸は正当化する。結果的に武士が経済的に困窮したことも、
“モンテスキューは、貴族を商業から閉め出すことは、富が権力者の手に集中することを防ぐという点で、望ましい社会政策であること”と言ったことから、”権力と富とを分離することは、より平等な富の分配の実現に資する。”と述べている。
武士道の価値観について
“武士道の骨組みを支えた三つの足は、「智」「仁」「勇」、すなわち叡智、仁愛、勇気であると言われた。サムライは、本質的に行動の人であった。”
武士道が現代日本人の価値観に及ぼした影響について
“わが国民が深遠な哲学を持っていない原因は、――日本の青年の中には、科学的研究においてすでに国際的評価を得た人もいるが、哲学の領域においてはいまだ何の達成もない――武士道の教育制度において、形而上学の訓練がおろそかにされたことによる。日本人の感情的すぎて激しやすい性質は、私たちの名誉の感覚のためである。”
ただし、武士道は廃れ行くと新渡戸は嘆く。
“現代の社会的諸勢力は、狭い階級的精神を容認しない。武士道は、イギリスの歴史家フリーマンが厳しく批判するように、一つの階級的精神であった。近代社会は、およそ国民の統一を標榜するかぎり、「特権階級の利益のために考案された純粋に個人的な義務」を認めることはできない。”
しかし、現代の日本でも、ことあるごとにサムライなどと持ち上げる風潮は残っている。
新渡戸も指摘するように、武士道とは日本人みんなに備わった価値観ではない。ある特権階級にのみ備わった価値観である。
それを、ことあるごとに引っ張りだすのもどうかと思う。