【本】17131『ハプスブルク帝国』岩崎周一

投稿者: | 2017-12-13

読むのに時間はかかるが面白い。
ハプスブルク帝国はいまのEUの原型と言えなくもない。
現在のEUをエマニュエル・トッドがドイツ帝国と呼ぶのも分かる。
長いので後半にダレると思いきや、どんどん面白くなるのは驚いた。

外交関係において、その国自身の名の代わりに統治している王家の名が用いられたところなどどこにもない

近年の研究は、ハプスブルク君主国が思われているほど特殊な国家でなかったことを強調する傾向にある。あえて言うなら、この国は性質や程度こそ異なれ、ヨーロッパ諸国と多くの特徴を共有する、「ふつう」の国だった。

進歩のプロセスとして歴史を描くスタンス(「近代史学」)が衰えた今日、ヨーロッパ史研究においては、多様性・複合性・流動性を前提として、他との比較や関係づけを通して諸国家のありようを考えるスタンスがスタンダードとなっている。

いる。中世盛期以降、ドイツの貴族は城・領地・修道院の三つをもって勢力の基盤とした

ルードルフ一世は、「巡幸王権」のスタイルを踏襲した。これは、特定の首都をおくことなく各地を王が移動し、諸侯・貴族・都市などの諸勢力と個別に関係を取り結びながら統治するもので、中世ヨーロッパ王権の基本的な統治スタイルである(このためしばしば、中世の王は玉座からではなく、鞍の上から統治したなどといわれる)。

には、ヨーロッパにおいておおよそ一二世紀以降、統治者による上からの支配に対し、被治者が横に連帯することで対抗したという事情

ハプスブルク家にとって三十年戦争とは、マクシミリアン一世期以来追求してきた覇権政策実現のための、最後の試みであった(

神聖ローマ帝国の国制は、皇帝を盟主的な存在とする諸邦の連合体という、従来の形に落ち着いた。「皇帝絶対主義」はあらためて否定され、神聖ローマ帝国の複合(君主政)国家としての内実は、より深まったといえる。これは一般的な「帝国」のイメージとは異なっており、後年フランスの啓蒙思想家ヴォルテールには、「神聖でもローマ的でも、さらには帝国ですらない」と揶揄された。しかし次章でみるように、神聖ローマ帝国はこの後もおよそ一〇〇年の間、再確認されたこの国制の下、連邦的な法と平和の共同体として、なお実体的に機能していく。ウェストファリア条約を「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とする評価は、すでに過去のもので

汎欧的に聖母マリアに対する崇敬の念が高まるが、この影響からハプスブルク家では、「マリア・テレジア」「マリ・アントワネット」など、女子の名に「マリア」が多く冠されるようになっ

ハプスブルク派であったカタルーニャでは、ブルボン朝支配に対する抵抗が長く続いた。バルセロナが降伏した(一七一四年)九月一一日は、一九八〇年に祝日となり、カタルーニャにおけるナショナリズム運動において、最も重要な日とされている。

改革の基本理念は「神意にかなう平等」であり、国家のすべての成員に対し、身分と立場に相応した責務を果たし、富国強兵に貢献することが求められた。租税負担のより適切な配分のために作成され、以後の税政の基礎となった土地台帳は、その直接的な成果である。

公益への献身と自助自立をモットーとし、「(社会的)規律化」の精神を身につけた「公民」の登場である。

マリア・テレジアにとって、人民はカトリック的・家父長制的秩序理念の下、「上から」教化善導すべき「臣民」だった。歴史家エルンスト・ハーニッシュは、こうした姿勢による統治が以後長く続き、福祉国家の形成などに一定の成果が上がったことで、オーストリアでは「お上」頼みの心性が育まれて国家主義的・官僚主義的な伝統が強くなり、市民社会の自立性・主体性が弱い政治文化(「臣民文化」)が生まれ

ヨーゼフが目指すところは母マリア・テレジアと同じく、「上からの近代化」によるハプスブルク君主国の強国化

プラハ、ポジョニ(現ブラティスラヴァ)、ミラノ、フィレンツェ、ブリュッセル、トリエステなど、この時期に独自の個性と存在感を示した都市は数多くあるが、最も発展したのはやはりウィーンである。その人口は一八世紀中に一〇万から二〇万余と倍増し、ロンドン、パリ、ナポリに次ぐヨーロッパ第四の都市となった。

貴族文化に憧れてそれを模倣しつつ、教養と趣味の良さで対抗しようとする市民の心性である。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの言動は、市民のこうした複雑な心情を物語るものとして興味深い。

モーツァルトと同じく、ベートーヴェンもシューベルトも、宮廷に仕えることを宿願としていたのである。

ハプスブルク君主国におけるナショナリズムは、ヨーゼフ期の集権化政策への反発から高揚した「愛邦主義」にその端を発する。これは当初は郷土愛の域に留まり、具体的な政治的要求をともなうものではなかったため、君主国全体の発展にも資する地域振興運動として体制側にも許容され、ヨハン大公やメッテルニヒはその熱心な後援者となった。ハンガリーの肉料理グヤーシュ(ドイツ語読みではグーラシュ)が世に知られるようになったのは、この運動の成果の一つである。もともと

小規模ないし「未開」な民族は、大規模ないし「文明的」な民族に同化・吸収されるのが「歴史の進歩」だとする「自民族中心主義」的な主張が現れてくる。

ヨーゼフ二世期以来、国政から遠ざけられていたカトリック教会は、王権を支える重要なパートナーとして復権を果たし、往年の勢威を少なからず回復した(「王冠と祭壇の結合」「サーベルと宗教による支配」)。

貧農や農村労働者は十分な土地を得ることができなかった。また解放の代償として領主による保護を失ったため、解放前より状況が悪化したケースもみられた。この困窮した人々の中から、やがて南北アメリカ大陸への移民が現れる。この動きは時を追うごとに活発となり、二〇世紀の最初の一〇年間にアメリカ合衆国が受け入れた移民八九七万六〇〇〇人のうち、ハプスブルク君主国の出身者は二一四万六〇〇〇人を占め、第一位となっている。また、一八七六年から一九一四年までの間に、ラテンアメリカへはおよそ三〇万人が渡った。

この戦争はハプスブルク君主国に何の利益ももたらさず、重大な禍根を残して終結した。 クリミア戦争の結果、友好国が一つもないという外交的孤立状態に陥ったことは、一八五〇年代末のイタリア情勢への対応に大きく影響し

ハプスブルク君主国は、プロイセンと同盟していたイタリアに、ヴェネツィアを割譲した。ただ、トリエステや(イタリア語話者の多い)南ティロールなどはハプスブルク支配下に残ったため、イタリアではこれらを「未回収のイタリア」とみなし、その獲得を目標とし続けた。これはのちに、イタリアが第一次世界大戦でハプスブルク君主国に敵対する主因となる。

富裕層の要求に応えるべく、主要都市には貴族の邸宅を模して、ネオ・ルネサンスもしくはネオ・バロック様式の瀟洒な高級アパートメントが多数建てられた。ウィーンのリングシュトラーセ沿いに林立するアパートメント群はその好例で、ここに居住した富裕層は「リングシュトラーセ男爵」と呼ばれた。まさしくこの呼び名が示す通り、このアパートメント群は、「ブルジョワと貴族の和解」(カール・ショースキー)の象徴であった。

ウィーンなどでカフェ文化が栄えた一因は、人々が住み心地の悪い自宅より、カフェに憩いの場を求めたことにある。カフェの「高尚」な雰囲気を好まない者はキャバレーに出向き、喧騒の中で日常生活の憂さを晴らした。

またこの時期には、民族と階級という二つの障壁によって政治から遮断されていた人々も声を上げるようになり、農業社会主義運動が盛んになった。彼らはデモ、ストライキそして暴動によって変革を求め、世紀転換後からは社会民主党(一八九〇年創設)の指導により、男子普通選挙の導入を求めた。さらに、非ハンガリー系諸民族の「ハンガリー化」に対する抵抗も、大衆政党を通して示されるようになった。 この事態に、自由主義派と(独立)急進派は手を組み、弾圧に乗り出した。

子供が通う学校を決める際、ナショナリストは「自言語」のみで教育する学校を薦めた。しかし親たちの反応は鈍く、しばしば多言語で教育を行う学校を希望した。このためナショナリストは、昼食や学用品の無料提供といった特典をつけ、自分たちが推奨する学校への勧誘を行う羽目に陥った。

しかし人々は、他にも多種多様な利害関心、思想信条、趣味嗜好をもって日々を生きており、ナショナリズムに染め上げられていた訳ではなかったのだ。

ハプスブルク君主国においても、状況は基本的に同じであった。ただ、迫害は絶えなかったものの──たとえばマリア・テレジアは、「堅気のひとが忌み嫌うあらゆる悪事をはたらく」「疫病神」などと露骨に嫌悪感を示した──、主に経済面での存在の大きさから完全に排除されることはなく、一七世紀末からは財政への貢献が大だった「宮廷ユダヤ人」を中心に、徐々に社会の中で地歩を固めていった。

チェコスロヴァキア大統領エドゥアルト・ベネシュはこの時期、「ハプスブルクよりヒトラーの方がまし」と公言している。またユーゴスラヴィア政府も、復位阻止のためには戦争も辞さない構えを見せた。こうした反応に加え、ドイツによるオーストリア侵攻の口実になりうるという判断もあり、オットーに期待するところ大であったシュシュニクも、ハプスブルク君主制の復活を見送った。

オットーはハプスブルク家の歴史をヨーロッパ統合と関連づけて語るようになった。

に、一九八八年七月にオットーは初めてハンガリーを訪れ、熱烈な歓迎をうけた。

かつてはもっぱら否定的な概念として用いられてきた「帝国」を、多種多様な国・地域・民族を包含する超域的な政治的枠組みと意味づけ、その可能性を探る議論も、今日「連邦制」や「統合」などをキーワードとして、活況を呈している。

二〇一七年現在のヨーロッパでは、ヨーロッパ統合とその理念に対する疑念の広まり(そしてこれと連動する形での国民国家の「再評価」)、さまざまな形でのナショナリズムの高揚、右派(極右)勢力の伸長といった事象が生じており、今後こうした動きが研究に影響をおよぼす可能性は否定できない。状況次第では、複合的国制や多民族共存を否定的ないし悲観的にみる立場から、今後ハプスブルク君主国が「失敗例」としてクローズアップされるということも起こりうる

君主‐諸身分間の(議会制による)合意形成システム、封建制、継承問題(結婚政策)、複合的国制、普遍主義、「宗派化」、神権的君主理念、「財政軍事国家」、啓蒙改革、パターナリズム、自由主義、多民族性、ナショナリズム、工業化、反ユダヤ主義、都市化、大衆政治、帝国主義(大国主義)といった諸事象は、他国でもみられたものだった。この意味でハプスブルク君主国は、ヨーロッパ諸国と多くの特徴を共有する、「ふつう」の国だった

ハプスブルク君主国に対する今日の再考・再評価の動きに行き過ぎがみられることに、注意を喚起しておきたい。

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