テーラーメイド医療とか、個別化医療とかが言われるなか、時代の流れを捉えた良書だと思う。
最近受けた産業医講習では、産業医のはしりとして神様のように言われていたテイラーのことを、本書では批判しているのが面白い。
すべての作業を標準化することで効率化を進めたのがテイラーの功績である。
それを徹底に応用したのがトヨタの現場改善であり、大量生産工場である。
しかし、本来は標準化することは困難だ。「普通の人間」でいない人はたくさんいる。
それを「異常」と切り捨てることは易しいが、本来は仕事を個人個人の能力にあわせるべきなのだ。
ヒトは、環境に応じて変化する。児童発達で有名なマシュマロ・テストも、信頼できる状況下にいる子どもは目の前のマシュマロを我慢しやすいそうだ。
信頼できる状況下で育った子どもは、そうでない子どもよりも将来成功しやすいのは自明だろう。
大事なのは、個人の素質を見極めて、適切な環境を与えることだ。
「平等なアクセス」だけでは不十分だ。アクセスする先が画一的では個人にあった環境は手に入らないからだ。
筆者は、特に教育面での改革を要望している。
医療でも、個別化医療の議論が始まっている。遺伝子、生活状況、価値観などから、その人に適した医療が提供されるべきだというのは大賛成だ。
教師が宿題を標準化した方法は、生産工程の標準化に応用できることをテイラーは認識した(11)。そして手始めに、ミッドベール・スチール社で標準化に取り組んだ。まずは、石炭を炉にくべるなど、工場で行なわれる作業のスピードを改善するための方法を探した。そしてテイラーが満足できるレベルまで作業が最適化されると、その作業を労働者が完成させるまでの所要時間の平均値を割り出した。さらに、作業を行なうために体を動かした回数の平均値も計算し、たとえばシャベルで一度にすくう石炭の最適量は九・五キログラムと決められた。そして最後にこれらの平均値に基づいて生産工程全体が標準化されたのである。各作業を進める方法は固定化され、ほかのやり方は許されない(石炭をシャベルですくう際には、九・五キログラムの石炭をすくうために最適化された特殊なシャベルを使うべきだとされた)。労働者は規格から外れることを禁じられた
た。個人は平均との比較のみで評価されるべきだという確信に基づいている社会のなかで、個性を理解して生かすことのできる状況をどのようにすれば創造できるだろう。
グループの分布は個人の分布の代わりとして十分に通用するという風変わりな仮定は、実のところ、個人を研究テーマにするほぼすべての科学者によって暗に受け入れられてきた。ほとんど意識されなかっただけである。
個人を理解するためには個性を無視すべきだという逆説的な仮定は、平均主義の致命的な欠点であることをモレナールは認識した。そしてこの間違いを「エルゴード性のスイッチ」と名づけた。
エルゴード理論によれば、以下のふたつの条件が当てはまるかぎり、集団の平均を使って個人について予測しても大丈夫だという。(1)グループのすべてのメンバーが同一である。(2)グループのすべてのメンバーが将来も同じである(10)。
集計してから分析するアプローチは、それぞれの子どもの個性的な発達パターンを隠蔽してしまった。分析してから集計するテレンのアプローチは、隠されているパターンを白日のもとにさらした。
ただし個人を優先させるアプローチには、ひとつ厄介な点がある。大量のデータ、それも平均主義者のアプローチよりもはるかに多くのデータが必要とされるのだ。分析してから集計する作業を効果的に行なうためには、広範囲にわたるデータを取得して使いこなさなければいけないが、そのために必要なツールは、人間を研究するほとんどの分野において一〇〇年前、五〇年前、いや二五年前にもなかった。
信頼できる状況の子どもたちは、かつてのマシュマロ・テストに参加した子どもたちとよく似た行動をとった。目の前のマシュマロの誘惑に呆気なく屈した子どもは数人ほどで、およそ三分の二は一五分間、すなわち最後までじっと我慢した。しかし、信頼できない状況の子どもたちの行動はまったく異なる。半数は、大人がいなくなった途端にマシュマロを口にした。ふたつめのマシュマロを手に入れるまで我慢できたのは、たったひとりだった(42)。自制心は本質的な特質のように感じられるが、これもまたコンテクストに左右されることがキッドによって証明された。
自分と一緒にいるとき以外にも、相手はいろいろなコンテクストにいるという事実を忘れなければ、新たな道が開かれる。本質主義的思考にとらわれていたときよりも、相手に対する理解や尊敬が深まるはずだ。ひいてはそれがポジティブな人間関係の土台となり、成功や幸せを確実につかむことができる。
二〇〇四年、人類学者のデイヴィッド・トレーサーはパプアニューギニアで先住民アウ族の調査を行なっているとき、奇妙な事実に気づいた。すでに二〇年間にわたりアウ族を観察してきたが、赤ん坊がハイハイする姿を見たことがなかったのだ(10)。ひとりも。そのかわり全員が、いわゆる「スクートの段階」、すなわち地面にぺったり座りこみ、お尻を引きずって移動する動作を経験していた。
アウ族の赤ん坊は、七五パーセントちかくの時間をスリング(身に着けて赤ん坊を抱くための幅広の布)のなかで縦抱きのまま過ごす。そして地面におろされるわずかな機会には、うつ伏せの姿勢になることを許されない。このような行動の制約には十分な理由があった。赤ん坊を地面と頻繁に接触させると、致命的な病気や寄生虫に感染しやすいことを大人たちは知っていたのだ(12)。
従来の方法で学んだ生徒たちは、速いほど賢いと信じる人たちの予想通りの結果を残した。一連の講義が終了したとき、教材をマスターした生徒はおよそ二〇パーセントだった(最後の試験で八五パーセント以上の正解率の生徒を、ブルームは成績優秀者として定義した)。成績が非常に悪い生徒も同様に少しの割合で、大多数は真ん中あたりに分布していた。対照的に、マイペースで学習したグループでは、九〇パーセント以上が成績優秀者として評価されたのである(29)。
習熟度の速さを優れた学習能力と同一視するのは、絶対的に間違っているのだ。
結果、大学での成功を後押しした決断はどれも、成功への道が自分にも開かれているという確信に裏付けられていることがわかった。しかし、それがどのような道か想像できるのは、自分自身のほかにいなかった。想像するためにはまず、自分がどんな人間なのかきちんと理解しておかなければならないが、私はその前提条件を満たしていたのである。
画一的な評価に基づいたランキングばかりが常に注目されるので、どの学生も平均的な学生とまったく同じに行動せざるをえない。みんなと同じ場所で、みんなよりも秀でなければならないのだ。
既存のシステムの平均主義的な構造を見直し、個々の学生を評価するシステムに変換させるためには、以下の三つのコンセプトを採用しなければならない。●ディプロマではなく、資格証明書を授与する。●成績ではなくコンピテンシーを評価する。●教育の経路を学生に決めさせる。
あなたが自分の教育に関してコントロールできる唯一の側面は、どの大学に出願して何を専攻するかだけである。これからは個々の学生の自己管理に任せる部分を増やしていくべきで、そのためには教育の構造の面から自己決定型の経路を支援しなければならない。
誰にでも平等の機会が提供され、誰もが潜在能力を十分に発揮するチャンスに同じように恵まれる社会が実現されることを望むならば、職業においても教育においても社会においても、個性を重視する制度を創造しなければならない。
平均の時代においては、機会は「アクセスの平等」として定義され、誰もが確実に同じ経験にアクセスできることが重視された(12)。
平等なアクセスにはひとつ大きな欠点がある。標準化された同じシステムに誰もが確実にアクセスできるように、個人の機会が平均的に最大化されることを目指すのだ。システムが個人にフィットするか否かは実際のところ考慮されない。
どんなに立派な発言をしていようとも、伝統的な公教育制度は個性の諸原理に反している
医療制度は個別化医療の方向へと進み、あらゆる患者にとっての平等なフィットを目指している。