これは良書。
人口予測の書籍はようやく巷にあふれてきた。
どれも、高齢者の増加、少子化、それに伴う社会問題について警鐘を鳴らしている。
しかしこの本ほど、少子化の行く末を残酷に描いたものは見たことがない。
あとがきにもあるが、取材班は、目の当たりにした各自治体の現状をみて、ありきたりな対策を挙げることを諦めた。
それほどまでに、日本の抱える人口問題の結末は残酷で、対処の仕様がない。
決してきれいごとでは済まない現実が具体的に描かれている。
困窮した自治体は、行政コストを住民に転嫁せざるを得ない。
人口減少しつつある過疎地で、税金もかかる。そんな土地に人口流入など望むべくもない。
先祖代々住んでいた家に住んでいたところを、自治体側から「そこの地域のインフラを維持するだけでコストがかかるから」というメッセージが発信された住民の心境は計り知れない。
しかし、それが現実だ。
山間部に住むこと自体が高コストであり、それを維持したければその分のコスト負担を要求される時代が来るだろう。
それが嫌なら、都市部の集合住宅に住むしかない。それが「他人に迷惑をかけない」方法と言われてしまう。
この本で挙げられた自治体はまだいい。厳しい現実を住民に突きつけるということは、自治体職員が泥をかぶって、怒りの矢面に立っているということだ。
大半の自治体は、なんとなくの過疎化を放置し、いきなり限界が来るだろう。
そのときに住民間の争いに発展する事態は悲劇だ。
都市部に流入してくる人々の世代の著しい変化だ。1990年の人口集中では、東京圏に集まってきていたのは、20代の若者が中心で、およそ半数を占めていた。ところが、2010年の内訳を見てみると、20代が占める割合は38%に低下し、その一方で30~40代が増加。つまり、新卒世代から、一度就職したとみられる世代へと変わってきている
これまで、東京は地方から働き盛りの若者を取り込むことで、膨張を続けてきたが、今後は、地方から上京する若者が少なくなり、「生産年齢人口」が急速に減少していく
現状の公共インフラをそのまま維持し続けるのは到底不可能だということだ。人口増加に合わせて拡大してきたインフラを今後、大幅に縮小していかなければほとんどの自治体の財政はもたないのである。
地域ごとに、現在かかっている行政コストを可視化し、住民に示すというのである。
老朽化した公共住宅を建て替える際などに、住民が退去しても新たな入居者の募集をかけることなく空室状態を維持し、その住宅全体が空になるように誘導していく。これが「政策空屋」である。
縮小の時代。そのとき自治体職員たちは住民の痛みに正面から向き合うことを迫られる。それは、拡大の時代を生きてきた公務員たちがおよそ感じることのなかった痛みである。
破綻前と破綻後を比べると、市民税が3000円から3500円に、軽自動車税は1・5倍、下水道使用料は10立方メートル当たり1470円から2440円に引き上げられた。ちなみに下水道料金は東京23区の約2倍である。
「いよいよ駄目になってから、じゃあどこをやめますかと言っても、テーブルにつくことすらできなくなる。元気があるうちは絶対に反発があります。こんな村を縮めるような話し合いをなんでするのだと。だけど、そういう文句がでるくらいのうちに多少しておかないと、できなくなるんですね。もしやらないとしたら、どんどん住みづらくなって、ますます人が減っていくということになります」
「住民と行政が〝協働〟する社会」というスローガンの下、住民に一定の自治を委譲することで、結果的に行政サービスの一部を担ってもらう「住民組織」という仕組み。これをどう評価するかは、住民や行政、そして研究者たちの間でも見解は様々だ。ただ確かなことは、11年前、島根県雲南市で始まったこの仕組みは、他の自治体からは「画期的な成功例」と受け止められ、県内各地でここ数年、一気に導入が進んでいるということだ。
人口300人弱の市内で最も高齢化が進む地区に国からの借金1億円以上を投じて大きなハコモノを作る一方で、わずか年160万円で自治を任せる。取材にあたった私たちには、なんともバランスを欠いた施策のように映った。
過疎を理由に「集団移転」を行った集落はまだ少数にとどまっているが、先行例では住民の満足度は比較的高い。総務省が2001年にこれまで集団移転した人々へのアンケート調査を行ったところ、72%が「移転して良かった」と答えた一方、「移転前の方が良かった」と回答したのは2・3%にとどまった。
横須賀市は、人口構造の大幅な変化により、財政面での大きな痛みに直面しているという。高齢化の進展などによる「社会保障費の増大」と、人口減少による、市税をはじめとした「収入の減少」という二重苦だ。
賃貸住宅に住んでいる単身高齢者の中には家賃を払えなくなり退去を迫られる人もあるだろう。そうなったとき、自宅でもなく、病院でもない、自分の死に場所さえ見つけられない、「死に場所難民」が出てくる、そう指摘する学者もいる。
いま東京に起きている一極集中が「死の一極集中」へと姿を変える日は近いかもしれない。そんな恐ろしい時代への突入を横須賀市の事例は予感させるのである。