【本】17100『街道をゆく 19 中国・江南のみち』司馬遼太郎

投稿者: | 2017-07-30

2017年6月、1ヶ月間、上海に行き復旦大学との共同研究を行っていた。
そのときには恥ずかしながら読んでいなかったが、帰国後に読んだ。
内容ひとつひとつに深い考察が込められ、面白い。

お茶の歴史については同様な疑問を抱いていたが、司馬氏の考察を読むと新たな視点がありさすがだと感心した。
さらに、中国はいまだに化粧する女性が少ないのは、文化革命の影響だろうと思っていたが、氏もまさしく「過去をすべて捨てたとき、婦人は美であらねばならないという(もしくは、女たちが、みずからひそやかに魅力を演ずるという)文化そのものも捨てた」という文章で端的に表現していた。
また、「文化は、外来の刺激によらなければ停頓し、逆に受容の側の感覚がゆたかであればふしぎな変容を見せるもの」という表現もすばらしい。

ちなみに私の故郷である池田市には「呉服神社(くれはじんじゃ)」というものがあり、織物の神様として知られている。
発祥は、蘇州から来た織物職人(呉の国の服部(はとり=織物))が住み着いたことによると言われている。
しかし、司馬氏は、「呉」を「くれ」と読むことから考察を展開し、実際は高句麗(クリ)あたりから来た職人ではないかという結論に至っている。
真偽はさておき、日本人の歴史観を左右するほどの影響力を持つ小説家はさすが発想力が違うと舌を巻いた。

本当に、旅行ひとつとっても、文化人と自分では考察のレベルが大きく異なるとレベルの差を痛感した本だった。

鉄の文字の古形は銕である。夷(非漢民族)が最初にそれを所有していたという歴史の痕跡をよくあらわしている。『

「清官で三代」  といわれた。清朝がおわるまでのことだが、地方長官はそれほどわきからの収入があった。本俸は安くおさえられていた。しかし任地に赴任すると、慣例上、賄賂とはみなされない役得のみいりが多く、清官でさえ三代食えるほどのものが、在任中に入ったといわれる。

元来、長江の氾濫がつくりあげた平原の真只中にあるこの町としては、網のように運河を掘って水排けせねば都市を成立させるだけの土地が造成できなかったのであろう。

四角い箱のような煉瓦壁を築き、白いシックイを塗りあげるという民家のつくりかたは、本来、イスラム世界のものである。

中国史上、最大の土木事業は、長城と大運河

このまことに無意味な勇敢さは九州沿岸地方の気質を想像させるから、真倭だったのであろう。

わざわざ本場の蘇州から名工をつれて来なくても、高句麗で十分だったし、おそらく阿知使主らは、そうしたのではないか。  呉をもって、 「くれ」  と訓んだのも、この機微から察するほうがよさそう

過去をすべて捨てたとき、婦人は美であらねばならないという(もしくは、女たちが、みずからひそやかに魅力を演ずるという)文化そのものも捨てた。

六朝文化の本質は、秦・漢以後の中国では例外的なほどに貴族文化であることだった。遊惰の風をもち、漢民族にはめずらしく政治をもって至上価値とする精神が乏しかった。むしろ政治を野暮とし「風流」を重んじた。風流という語と思想と態度が、やがて百済経由で日本に定着する。風流至上、政治は野暮という六朝の気分はのちのち平安朝の文化を染めあげ、こんにちなお日本人の政治観に投影しているのではないか。

中国にあっては、六朝(南朝)がほろんだあと、隋・唐帝国が興り、長安を中心とする新標準語ができた。日本でいう漢音である。日本は隋・唐にも朝貢して文化を吸収した。長安であらたに知った漢音と、それ以前に知った呉音(江南省)とを、いまなお混合させてつかっていて、ただでさえややこしい日本語をいよいよ複雑にしている(朝鮮の場合は、ある時期の長安音一本に統一された)。

京の絹織物の生産地である西陣の商人が、江戸期、同業の神として摂津池田の呉服神社を信仰していたというから「呉服」という言葉はこの神名からとった

日本文化には、かつての中国やその後の西洋に対してこの種の深読みをしてかえっておもしろさができあがっているところがないでもない。茶道も華道も、当時の中国の寺院生活の日常から切りとってきて、本家が想像もしなかった世界をうちたてたものといえる。

状元とは科挙の試験での首席合格のことである。状元は他の合格者とは別格にあつかわれ、大いに優遇されたが、蘇州人にそれが多かった。

すぐさま飛脚を出し、とりよせて広嘉にみせると、この殿様は案をたたいて笑んだという。この程度のヒントで、名橋錦帯橋ができた。文化は、外来の刺激によらなければ停頓し、逆に受容の側の感覚がゆたかであればふしぎな変容を見せるものだが、右のことはその絶妙なほどの例である。

畠も畑も日本製文字で、中国にはない。

中国皇帝を宗主(本家のあるじ)と仰いで朝貢してくる蕃国があれば、これをあつく接待し、使者には、貢物をはるかに上まわる高価なみやげものを持ってかえらせるという「版図外交」

モンゴル人に例をとると、かれらの食事は肉食と乳で、野菜をほとんど摂らないため、壊血病(ヴィタミンCの欠乏症)になるおそれがある。このため、茶をさかんに飲む。飲み方は、漢民族のやり方とまったく異る。茶を乳にまぜたり、また羊肉や乳を煮あげる鍋の中に入れてともに煮る

剽悍な遊牧民が茶を必要とするようになって、漢民族に対して軟弱になったともいえるであろう。茶は、漢民族によるルート以外に入手できず、それを断たれれば、食生活の基本条件の一つが欠けてしまうことになる。

アヘン戦争より二十年ばかり前に、英国人がインドのアッサムの奥地で野生の茶を発見したことによって、状況が変った。やがて英国人は、インドの安い労働力によってほどほどの値になった紅茶を大いにのむことになるのだが、いずれにしても、中国の茶という本来、静かで平和な飲みものが、二十世紀後半の中近東の石油のように、十九世紀まで世界に連続的な衝撃をあたえたものであるということは、世が変ってしまうと、想像することすらむずかしい。

その発酵を止めることによって葉(芽)の青さや成分をのこすことを、中国の用語では、 「殺青」  という。殺青は、日本の煎茶では蒸すのだが、龍井では釜炒りする。

中国では弥勒菩薩がつまりは布袋さんなのだ

弥勒信仰というのは中国では古いが、むろん、本来は布袋さんではなく、いつのほどか、瘦身の女性的な弥勒像が、布袋さんに変ったのである。

最澄が請来しようとしているのは、天台教学であった。法華経を中心とするこの教学は、なまなインドのにおいがすくなく、多分に中国的解釈の上に成立した仏教で、たとえば以前に中国経由で日本に入った仏教(南都六宗)にくらべても、インド的解脱より非インド的な救済の思想のほうが濃い。

酒を仕込んだり、できあがった酒を一時貯えるのに、日本酒の場合のように樽や桶をつかうことをしないのである。すべて、硬質の陶器・磁器であった。

江戸期の経済に大きな活力をあたえた大型桶・樽が日本酒の歴史にも重要なかかわりをもつのだが、ただ桶・樽の製造を可能にしたのは、鉋の出現なのである。

付近に砂漠をひかえた軽度の乾燥地で、バクテリアがすくなく、しかも牧畜や農業ができるという地をえらんで、古代の人類はあつまってきたようにおもえる。メソポタミアのシュメル文明やエジプトの文明の成立には、そういう地理的なものが有力な条件になっているように思えるが、どうであろう。

ひけるが、そのくだりを引用すると、 古くこの列島に稲がもたらされたのはいまのジャポニカとよばれるコメ(朝鮮米もむろんそうである)が最初ではなく、赤米だったという説が定説化しつつある。  

中国人には、職務にかかわらず、午睡時間がある。

室町期に官と私の貿易をこきまぜて輸出された日本刀は、印象として十数万振はあったろうと思われる。  主として、備前(岡山県)福岡村あたり――当時の福岡村の夢のような殷賑ぶりから察して――でつくられたのであろうが、貿易用の大量生産だったために、その質は、あまりよくない。

宋以後の中国は、みずからの文明のなかにともすれば閉鎖するという一種の文化的な律ともいうべきものに従って自然にそのようになったのかもしれない。  ただし、操船と航海術のほうは、大いに外来のものをとり入れ

庭園、数寄屋普請、床ノ間、茶道、申楽、能、幸若舞、祇園祭のような華麗な祭礼文化といったことを考えてゆくと、すべてその後の日本文化の出発を室町時代がなしている。  それらは、銭経済の成立が基本条件をなしているといっていい。

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