【本】17082『経済で読み解く 織田信長 ~「貨幣量」の変化から宗教と戦争の関係を考察する~』上念司

投稿者: | 2017-06-08

マクロ経済学の理論?をつかって戦国時代を解説した本だ。

当時は通貨発行権を他国に委ねており、中国から貨幣を輸入していた。
だから、慢性的に貨幣不足でデフレ傾向になりやすかった。
さらに、貨幣流通は、留学僧などをつうじて寺社勢力が握っていたため、寺社勢力の経済力が強かった。
筆者は、『寺社は仏教留学僧が作った支那とのコネクションを生かして貿易業に精を出す巨大商社であり、広大な荘園を所有する不動産オーナーであり、土倉や酒屋といった町の金融業者に資金を供給する中央銀行』
とまで述べている。

宗教上真面目にやっていたグループもあっただろうが、五山vs本願寺の戦いなどは、まさしく仁義なき戦いと言える。

だから、織田信長が天下を統一するには寺社勢力を一掃することが必要だった。織田家も、領地内に神社を持っており、寺社勢力の力の大きさは身にしみていた可能性が高い。

筆者も述べているが、決して織田信長について説明した話ではない。室町時代から戦国時代にかけての日本のマクロ経済について述べた本と言える。

【経済の掟】(例)   ● お金をたくさん刷れば必ずインフレが起こる   ● お金の量が減ればデフレになる   ● デフレになるときは自国通貨高になる

「巨額の財政支出と減税」を約束するとともに、「外国による不当な為替操作を許さない(要するに、ドル高牽制)」と宣言しました。しかし、このふたつの政策は完全に矛盾しています

銀行が融資に積極的になれば口座の残高は幾何級数的に増えてマネーストックが増加す

寺社勢力こそが支那との貿易の担い

私たちが現代的な意味で使っている貨幣という定義に当てはまる国産貨幣は、江戸時代以前には存在しなかったと考えて差し支えありません。本書では「江戸時代以前の日本には国産貨幣が存在せず、外国からの渡来銭を貨幣として使用していた

当時の日本人は、「支那の貨幣発行に便乗しつつ、貨幣価値は独自基準を適用する」という極めて賢いやり方で対応していたのです

支那では銭1貫文当たり米33・5ℓしか買えないのに、日本では銭1貫目当たり225・8ℓもの米が買えます。その差は6・

当時の日本は国産貨幣を発行せず、実体経済の発達に比べていつも貨幣が不足ぎみだったため、銅銭の価値を7倍ぐらいにして調整しないと国内のモノとお金のバランスが取れなかったのです

日本から見れば日明貿易という二国間関係のように見えてしまいますが、実際に明朝がやっていたことは支那を中心とした多国間の「国際貿易秩序」の構築でした

大量にばらまかれた支那の銅銭はまさに当時の〝基軸通貨

徳の高い明朝の皇帝陛下はもらったものの3倍返しは当たり前でし

「国際金融のトリレンマ」とは以下の3つのうち、2つを達成すると残りの1つは達成できないという絶対に逆らえない経済の掟です。  〔国際金融のトリレンマ〕  ① 固定相場制  ② 金融政策の自由  ③ 資本取引の自

寺社は仏教留学僧が作った支那とのコネクションを生かして貿易業に精を出す巨大商社であり、広大な荘園を所有する不動産オーナーであり、土倉や酒屋といった町の金融業者に資金を供給する中央銀行

鎌倉、室町を通じてこの巨大権門に立ち向かったのが五山(臨済宗)です。彼らは金融と会計のプロフェッショナル集団「東班衆」を抱え、幕府と結託してのし上がりました

寺社勢力は実質的には日本の中央銀行

頭が固くてボケっとしていた公家や御家人、時代の流れについていけない旧仏教勢力は五山の東班衆の前になす術もなく資産を切り取られていっ

京都にあった総本山・大谷本願寺はたちまち150人の比叡山衆徒に襲撃され、徹底的に破壊されました。  しかも比叡山はこれだけでは飽き足らず、和睦の条件として本願寺に毎月30貫文を比叡山三塔に納入すること、飯室谷不動に1貫50文を支払うことを約束させてしまいました

本願寺側も近隣の赤野井の慶乗らが駆けつけこれに反撃し、日浄坊を殺害します。蓮如は「人を殺すとは何事か!」と逆に怒ったそうです。この事件は「金森合戦」と言い、歴史上初めての「一向一揆」だと言われています

本気を出した比叡山の軍事力の前に、堅田の町はあっという間に全焼しました。蓮如をはじめとした本願寺の門徒は船に乗りこみ、命からがら近江八幡に浮かぶ沖島に避難しました。これが本願寺最大の法難の一つに数えられる「堅田大責」です。このとき蓮如は船の中から比叡山を見上げ「恐ろしき山かな」とつぶやいたそうです

最も大きな変化は経済の分野においてです。幕府の保護を受けて、あれほど経済的な栄華を誇っていた京都五山が壊滅的な打撃を受けてしまったのです。五山の勢いの低下は北陸地方に多く存在した五山の荘園の解体にもつながりました。五山の衰退と入れ替わりに急速に北陸地方に浸透したのは本願

下剋上に必要なものは、大義名分と民衆の支

「一般論として『百姓』の分際で守護、地頭に逆らい、戦うなどということは前代未聞の悪事である。しかし(その守護が)『百姓』の信心を迫害するような場合、守護、地頭に『謀叛』を起すことは道理至極である」(『柳本御文集』)と。〈中略

1536年7月27日までの約4年間、晴元不在の京都の治安を維持し、一向一揆などの外敵から守っていたのは法華一揆です

カッコよく言えば信長の情報力と学習能力を示すものであり、有り体に言うと「パクリの天才」だったということです。成功しているやり方は徹底的に真似して、オリジナル以上の精度で再現し、逆に失敗しているやり方は絶対に採用しない、これこそが成功への近

〔信長の行動理念〕   A 役に立つものは積極的に活用   B 役に立たないものは捨てる   C 敵対するものは完全殲

A 役に立つものは積極的に活用   B 役に立たないものは捨てる   C 敵対するものは完全殲滅   D 役に立つか立たないか判断できない場合はチャンスを与えて結果で判断する   E 敵対する相手をその時点で滅ぼせない場合は次のチャンスまで待つ   F 過去の成功事例は徹底的にパクると同時に過去の失敗事例に学んで同じ過ちを繰り返さな

明のデフレ政策による財政難で朝貢回数が制限されるようになると、公式の朝貢体制の枠にはまらない密貿易が横

歴史教科書では友好的な日明貿易がある日突然倭寇によってぶち壊しになるかのような書き方になっていますが、倭寇が登場する原因が日明貿易のあり方そのものにあったわけです。逆に、明が貿易を自由化して、朝貢よりも互市をメインにしていれば倭寇が発生する余地はなか

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