宗教観が世界的に希薄になっているという話はよく聞く。
アメリカで仏教徒が増えているようだが、本気で信じている人はおそらく少なくて、「禅」をしてみたいとかエキゾチックな雰囲気に惹かれているようだ。
だから、禅宗ではない浄土真宗でも禅の体験ができるよう地域のニーズに対応しているらしい。
本書は、池上彰氏が書いた、宗教についての対談本だ。
海外に行ったときには「私はブッディストだ」と言うのは賛成。結局無宗教という言い方は海外の人にはわかりにくい。
「あなたは不真面目な仏教徒だ」くらいの理解をされるのがちょうどいいのかもしれない。啓典の民ではないが、それでも野蛮人と見られずに済む。
日本が宗教的に進んだ姿だ、というのはその通りなのだろう。だからこそ保守的な、敬虔なキリスト教徒、イスラム教徒たちからは理解されがたい。
「宗教からの自由」というのはぴったり来る表現だ。
とはいえ、やっぱり世界の「遅れた」宗教観の人たちと話すときには注意が必要で、彼らの理解度にあわせて「私は仏教徒だけど、熱心ではないんですアハハ」程度に済ませておくのが無難だろう。
スンニ派は、多数派です。多くのイスラム教徒がスンニ派に属しています。スンニとは、慣習や伝統を意味しますので、代々伝えられてきた伝統を守る人々ということになります。
大統領選に勝ち抜くためには、それぞれの党内で支持を得た後で、政策を中道寄りにもっていく必要があるのです。
民主的な選挙をすると、原理主義勢力が圧倒的な力をとる。これが民主主義のジレンマです。
ヨーロッパの国々が植民地を支配するときには、必ず少数派によって多数派を支配させてきました。フランスはインドシナで、ベトナム人を使ってカンボジアを支配しました。イギリスは香港やシンガポールを、連れて行ったインド人に支配させました。そのためいまも香港やシンガポールには大勢のインド人がいます。
海外に行ったときには、「私はブッディストだ」と言っています。
島田 今の社会は、平安時代と江戸時代に次ぐ、第三の長期安定期といえる
日本は、ある意味では世界でもっとも宗教的に進んだ国になっている。テロもオウム真理教が早かったですから。そういう意味では、全て前倒しで来ているから、現在の日本の信仰の形態が、実はこれからの世界的なスタンダード
仏教の目指すところは、「智慧と慈悲の獲得・実践」のはずなんですから。社会と関わり、他者と関わり、苦悩の中に身をおいてこそ本当の仏道ではないのか、それが大乗仏教ムーブメントです。ですから、基本的には社会と関わろう、他者と関わろうとする力が上座部仏教に比べて強い。
死の以前に、老と病があるわけですが、六百数十万人が老の域に入ってきたら、国家の社会保障もうまくいくかどうかわからない。そのときに、寺がもっている潜在能力をしっかり発揮できたら、間違いなく社会は変わります。土地はある、建物ももっている、人脈もあるのだから、それらを最大限に使い、その地域に高齢者の支援施設をつくっていくというアイデア
の小学校区の中に寺が三つか四つあるという計算です。これほどいい社会資源はないじゃないかと思うんです。たとえ檀家数が少ない寺の場合でもデイサービスやグループホームなど、介護保険の対象になる運営が可能
余談ですが、中東の男性は、女性の髪の毛に猛烈に興奮するようです。だから髪の毛を隠すようになった、という説が有力
飯塚 今は、イスラム教徒が子だくさんで増えているというのがいちばん大きいです。
ウェールズ系日本人と称している作家のC・W・ニコルさんが、「日本に来ていちばんよかったことの一つは、宗教からの自由だ」と言っていることです。 池上 なるほど。「信教の自由」ではなく、「宗教からの」自由ですね。
ただ最近は、別の原理主義が出てきているのではないか、という気もします。 池上 どういうことでしょうか。 養老 「唯一客観的な現実」が存在するという信仰です。
日本人の「無宗教」と欧米の「無宗教」とは異なるのだ、という養老さんの指摘は頷けます。欧米で「無宗教」といえば、それは「アンチ・キリスト」のことであり、イスラム圏で「無宗教」といったら「反宗教」になる。ところが、日本人の「無宗教」の「無」は、仏教の「無」であり、「空」でもある。日本人の体に宗教は沁み込んでいて、意識しないだけだというのです。
養老さんの死生観は“〝突き抜けて”〟います。「死んだらおしめえよ」というわけですから。でも、凡人は悩みます。養老さんの回答は、次の通りです。 「われわれ人間は日々変化している」「その先に、誰にも死が来る」「それが自然の理と考えるだけでも、だいぶ楽になるんじゃないでしょうか」 「幸いなことに死んでしまえば、もうあれこれ悩む必要はありません」