【本】17142『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』磯田 道史

投稿者: | 2017-12-23

司馬遼太郎マニアとしては買うか逡巡したが、買ってよかった。
現在は、時代の変化のなかでこれまでの既得権益が崩れていく、まさしく幕末に近い構造だと思う。

日本近代を考えるうえで、この熊本出身者というのは非常に重要です。歴史観をつくった蘇峰の他に、大日本帝国憲法(*2)の制定に大きく関わった井上毅(*3)、また、その井上とともに教育の基本法にあたる教育勅語(*4)を起草した元田永孚(*5)も熊本の人です。近代日本の思想、憲法、教育の三分野の根幹部分は、熊本の学校で学んだ人たちが主導した

日本社会には経路を大事にして激変を好まない傾向があります。「経路依存」という言葉がよく経済史で使われますが、それまでの行きがかりを大事にする人物が最後には天下を取るのが世の常です。

重要なのは、革命には最初に理想主義を掲げる予言者が現れ、次に革命の実行家が現れ、最後に、その革命の果実を受け取る権力者が生まれるのですが、そのときにはもうすでに革命は腐敗が始まるということです。

変動期には大村のような合理主義的な人物が登場して日本を導くが、静穏期に入ると日本人はとたんに合理主義を捨て去る。この繰り返しであることを、司馬さんは言外に訴えています。

日本人は、「いつも思想はそとからくるものだ」(『この国のかたち』一、1「この国のかたち」)と思っていて、それをまつりあげて、いつのまにか集団で幻想を見る。そして、思想に酔ったその集団をひとつの方向に引っ張ると、とんでもない方向に走っていく──そうした危険性を、司馬さんは痛感していたように思います。

司馬さんが描きたかったリーダー像というのは、国を誤らせない、集団を誤らせない、個人を不幸にしない、ということに尽きると思います。

日本人のなかには、勝敗や結果は関係なく、忠義の思想・動機が大事だというような情緒に素直に感動する人がいて、後々までこの故事が賞賛されることになります。

司馬さんが考える「歴史を動かす人間」とは、思想で純粋培養された人ではなく、医者のような合理主義と使命感を持ち、「無私」の姿勢で組織を引っ張ることのできる人物だったと言えます。

「幕末の倒幕のエネルギーは、攘夷からおこったことはいうまでもありません。/『開国』/なんてのは、イデオロギーとしては弱いです。開国は理の当然で、正しくかつ常識的なありかたですから。正しくて常識的でたれでももっともだというスローガンは、革命的ではないのです。それは、液体でいえば、水です。水は、生きるのになくてはならないものです。しかし、革命というのは、みんなが酔っぱらわなくてはならないものですから、水ではどうにもならなくて、強い酒を必要とするものなのです」(上巻、第四章「〝青写真〟なしの新国家」)

国持ち大名の系列は、最終的には約二八〇藩ありましたが、実際には譜代大名を除けば、分家や一族の藩が多いので、大きな国持ち外様大名とその親戚と言えます。ですから、よく「江戸時代は二八〇の藩に分かれていたから、地方分権をやるときは二八〇ぐらいに分ければいいんじゃないか」という議論がなされますが、それは違っていて、江戸時代は数十の行政的なまとまりで分かれていたと見るほうが、現実には近いように思います。

人材の多様性こそが、じつは江戸という時代から引き継いだ最大の遺産だった

これには、江戸時代の人たちが非常に勉強熱心であったということが大きいと思います。知的レベルの高さとともに、権威に従順だということもあります。親孝行とか忠孝といった考え方がしっかり浸透していたから

日本という国家を近代化させて強国にするには輸送用機械が必要だから、武士だけれども鉄道技師になろうと思って行く──これが格調高いリアリズムです。

日本海海戦で勝利した後の秋山が、故郷の松山で講演した記録が残っています。そこで秋山は「道具選びをするわけではないが、戦術上における兵器の優劣というもの、戦力の影響というのは避けがたい」というように語っています。

公共心が非常に高い人間が、自分の私利私欲ではないものに向かって合理主義とリアリズムを発揮したときに、すさまじいことを日本人は成し遂げるのだというメッセージと、逆に、公共心だけの人間がリアリズムを失ったとき、行き着く先はテロリズムや自殺にしかならないという裏の警告メッセージを、司馬さんは、私たちに発してくれているのではないかと思います。

「もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分に厳しく、相手にはやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、〝たのもしい君たち〟になっていくのである」

Pocket