【本】17117『人間はどういう動物か』日高敏隆

投稿者: | 2017-12-02

ドーキンスの利己的遺伝子とか、その流れの話。
動物は利己的であるが故に、自らのリスクを回避するため殺し合いはしないとか、そういう視点が面白い。
この分野、現象を観察するのは誰でもできるが、その解釈には知性が必要だ。

「自己擬態」と言って、自分自身の体の一部で体のほかの部分を擬態することもある。 もっとも有名なのがゲラダヒヒであろう。ゲラダヒヒのメスには、胸に性器のような模様がある。ゲラダヒヒはいつも座っているから、胸の色を性器のようにしてオスをひきつけることにしたのである。

動物の世界では、メスは選ぶ一方で、オスは選ばれる一方である。しかしそこではだましたり、噓をついたりといったことが頻繁に起こっている。「自然は噓をつかない」という言いかたが流行ったことがあるが、これは大きな噓である。人間のやっていることは、自然の中にすべてあると思っていい。

「ミーム(meme)」とは、「利己的遺伝子」説をとなえるリチャード・ドーキンスの造語である。要するに「遺伝子(gene)」ではなくて、その人の「名」「存在」「業績」「生きかた」「生きがい」のようなものである。人間は、自分の遺伝子だけでなく、この自分のミームもできるだけ後代に残したがっている、とドーキンスは言う。場合によっては、遺伝子は残さなくてもよいから、ミームは残したい、とさえ思う人もいる。結婚もしない、子どももつくらない、だけど自分のライフワークだけは残したい、というような人だ。

本来は草食獣である人間だが、好みとしてはすっかり肉食獣になっていた。ただし、体はスナック・イーターのまま。これが今日、人間の悲劇を生んでいる。

言語の基本的なことは、どうも人間は教わるのではなくて、遺伝的に三~四歳になるとわかってしまうらしい。この基本的な文法構造は、人間であればみなもっている。これは、イヌがワンと吠えるように、教わるわけではなく、文化でもなく、遺伝的にもっているものらしいのである。

基本的な文法構造は遺伝的、単語は文化から学習する、という構造らしいのである。

モンシロチョウの幼虫は、カラシのにおいがすれば口に入れ、そして口の中でカラシの味がしたらのみこむ、と遺伝的に決まっている。レタスの葉っぱは、さわってみてもにおいがしないから、食べない。けれども、ただの紙切れにカラシを塗って与えると、食べても栄養にならないのに、平気で食べてしまう。

学習と遺伝は対立するものではなく、学習は遺伝的プログラムの一環であるということになる。

今の家庭は特殊なケースだから、家庭の中だけで育つと、ずれたおとなになってしまう。

子どもは、自分でおもしろいと思ったことは、どんどん取りこんで育っていくものだ。好奇心があれば、身につける必要のあるものを自分で選んで、取りこんで、勝手に育っていく。教育とは、結局、そういう「場」をつくることなのである。

ドーキンスの答えはこうである。「自然淘汰はたんなる偶然ではなく、累積的にはたらく」。

ぼくは思った。今はこの「探す楽しさ」が忘れられているのではないか?

都市をすべて偶然に任せるわけにはいかない。しかし人は都市計画によって「与えられた」ものだけでは、けっして心から満足することはないだろう。人間はそのときそのときに漠然となにかを欲する。それを求めたり、探したりするという情緒的なものの大切さを忘れてはならないのではないかと思う。(『

自然界での「共生」は、互いの利己のせめぎあいの上に成り立っている。

人間は人間の論理で生きてゆくほかはない。建築は建築の論理にしたがってゆくほかはない。しかし同時に、そこにはほかの生きものたちの論理があり、自然の論理もあるのだということを忘れてはなるまい。 人間以外の論理はつぶしてしまったほうが楽であり、そのほうが整然として美しく見える。しかし、共生とは、異なる論理のせめぎあいの中で生まれてくるものであり、そうであるからこそ、そこに従来のとは異なった新しい美も生まれてくるのかもしれないのだと思う。(「

人間も動物であるから、利己的にふるまうのは当然である。しかし、動物たちは利己的であるがゆえに、損することを極端に嫌う。浅はかに利己的にふるまいすぎてしっぺ返しを食ったときに、やっとそれをやめるのではなく、もっと「先」を読んでいるらしい。

しくみ、機能、発達、進化という四つの柱。動物行動学は、動物の行動のそういうことを研究する動物学の一分野である、

みんながすごく利己的なのにもかかわらず、全体としては助けあったり相手を立てたりすることになり、そうめちゃくちゃにはなっていないこともわかってきた。

科学がなんの役に立つかということをよく聞かれる。いろいろな形で役に立つのだろうが、いちばん大きいのは、すこし大げさに言えば、ある種の哲学である。自然観、つまり自然をどう見るかというところにつながっていくのである。

た。日本では平気でものを断定的に言う。自分はそう思うという言いかたで主張するのではなくて、「これはこうなんだ」という格好で言う。 科学がどうしてヨーロッパから生まれたかというと、そういうことなのかもしれない。つまり、「自分はこう思う」と言うと、ほかの人は「いや、おれはそうは思わない。おれはこう思う」というやりとりをするから、議論ができてくる。そのときに「なぜ、おまえはそう思うんだ」と聞くと、「それはこうこうこうだからだ」。そして「いや、おれはそうは思わない。こうこうこうだから、こうだ」。

動物行動学で研究がたくさんあるが、愛というのはメスにしかないものだということになっている。メスは自分の子どもを育てるために、なるべくオスが一匹、自分のそばにずっといてほしい。そうするとメスのほうは自分の子どもが育てられる。本当はオスなんかどうだっていい。オスは自分に役立てばいい。

逆説みたいなもので、浅はかに利己ではなく、先まで見た利己になると、相手は殺さないという判断になる。

少なくともほかの動物の場合、有限な場所に何代も住んで同じものを食べているとなると、むしろ若いものたちにとって非常に迷惑な存在になる。

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