戦争というのは、自然現象に近いから、思考停止で批判するのはよくないというのが筆者の主張。
確かに、戦争を抑制しようとするあまり過剰な介入を行うことで、中東情勢などをよりややこしくしているのは事実。
考え方自体は、米英の正義を基とする価値観には新鮮なのだろうか。私にはいたって普通のことを言っているように思えた。
3.11以降の混迷は、ひとえにイギリスの二枚舌外交が原因と言ってもよく、中東の「正常」な発展は妨げられてきた。
イスラム国の対応も、これでいいのかは分からない。
結局、中東で無理矢理潰されたテロ組織が、アジアへ分散したようにしか見えない。
「和平合意と難民移住などに関する責任をすべて引き受ける覚悟」がなければ無責任に介入などすべきではない、というのは本来その通りなのだろう。
しかし、とかく国際機関は無責任かつ短絡的なものなので、目の前の人道的問題から目を背けることができず、副作用の多い対症療法をとりがちだ。
評価すべきは、このような意見を欧米人が堂々と言える程度には議論が発展してきたという点だろう。
ユーゴスラビアにおける長期にわたる悲劇的な内戦のきっかけとなった。最悪なのは、この戦争が互いの疲弊によってもたらされる自然な合意によって終わったわけではない、という点だ。アメリカの介入によって終わらされたのだ。これが、一九九五年のデイトン合意である。
私がここではっきり断言したいのは、いかなる難民も、別の場所に移住し、そこで移民となり、新しい国で新しい生活を始め、幸せに暮らすものである、ということだ。
そこで主張したのは、「戦争には目的がある。その目的は平和をもたらすことだ。人間は人間であるがゆえに、平和をもたらすには、戦争による喪失や疲弊が必要になる」ということだ。外部の介入によって、この自然なプロセスを途中で止めてしまえば、平和は決して訪れなくなってしまうのである。
介入しても良いのは、和平合意と難民移住などに関する責任をすべて引き受ける覚悟がある場合だけである。みずからの外交力によって和平合意を実現できないようなら、紛争に介入してはならない。
ノヴォロシア(Novorossiya)」という古い概念について教えてくれた。 これは、一八世紀のロシアに生まれた概念で、「エカテリーナ二世によって獲得された領土」のことだ。
日本、インド、ベトナム、それにインドネシアやマレーシアの部分的な参加による「反中同盟」は、フィリピンを含めた「反中同盟」よりも、はるかに強力だから