【本】17039『経済大国インドネシア 21世紀の成長条件』佐藤百合

投稿者: | 2017-03-16

こちらもインドネシアについてまとめた本だ。
経済面からの考察が詳しい。
ビジネスなどを考える人には、こちらの方が昨日の本よりも有意義だろう。
とはいえ、国民性や国の事情をとらえるうえで歴史は必須なので、結局両書を読むことになるだろう。

インドネシアの可能性については、私が言うまでもない。
人口ボーナスは続くし、人口は多いし。
筆者の言うとおり、適切な経済政策(産児制限など)が必要ではあるだろうが、若い人口が多ければ国全体の経済はもちろん成長するはずだ。

インドネシアが世界最大のイスラム人口大国にして民主主義国

「タイ、ベトナムと、インドネシアとは何が違うのか」という問いに対する一つの答えは、「規模が違う」ということになる。経済規模の大きい国がひとたび成長を始めれば、当たり前のことながら、毎年創出される生産活動と市場の規模もまた、相応に大きい。

インドネシアは一九九三年に世界銀行の『東アジアの奇跡』のなかで「高パフォーマンスアジア経済群(HPAEs)」の一つに加えられた。HPAEsとは、日本、NIEs(韓国、台湾、香港、シンガポール)、マレーシア、タイ、そしてインドネシアの八ヵ国・地域

インドネシアの来し方五○年の軌跡が示すのは、持続的な成長力を左右する一つのカギは、政治体制の安定にあるということである。

インドネシアでは、成長率が六%を超えたか超えないかが明暗の分かれ目になる。六%に届かないと、失業が増えてしまうのだ。  インドネシアでは毎年、二○○万~二五○万人の新規参入労働力が発生する。これを吸収するためには、雇用弾力性(一単位の経済成長に対する雇用の伸び)を○・四と仮定すると、最低六%の成長が必要になる。

なのは「オランダ病(the Dutch Disease)」であろう。天然資源の輸出収入が急増して内需が拡大したとしよう。貿易財(工業製品)は輸入できるが、輸入できない非貿易財(サービス業)は相対的に価格が上昇し、国内の生産要素は貿易財部門から非貿易財部門へとシフトしていく。また、外貨収入が増加すると実質為替レートが上昇し、貿易財の輸出競争力が低下してしまう。こうして国内の貿易財部門が弱体化し、脱工業化が起きる症状をオランダ病という。

いる。インドネシアは、BRICs各国とは違って、最大民族集団の言語を国語にしなかった。人口の約四割を占めるジャワ人のジャワ語ではなく、文法がシンプルで表記が簡便なスマトラ中南部の海洋交易用語、ムラユ語(マレー語)を国語に採用した。  

スハルト時代のインドネシアは、「人口抑制の優等生」であった。人口増加率は、一九六○年代の年平均二・一○%から一九七○年代に同二・三二%にやや上がったものの、その後は一九八○年代に同一・九八%、一九九○年代には同一・四五%と、一○年ごとに○・三~○・五ポイントずつ着実に低下してきた(政府人口センサス)。この功績をもって、スハルト大統領は一九八九年に国連人口賞を授与されている。

人口ボーナス期間の平均終了時期が早い順にアジア主要国を並べたのが図2-3である。日本の人口ボーナス期間は、一九九○年頃にすでに終了した。二○一○~一五年には、タイ、韓国、中国が相次いで終了すると予測されている。インドネシアの人口ボーナス期間は、この三国やベトナムよりも長く、より遅くまで続くとみられる。インドネシアより長く遅くまで続くのは、インドとフィリピン

人口ボーナスが成長促進効果をあらわすには、条件があるということだ。その条件とは、まず、そもそも人口ボーナスを発生させる前提である出生率の低下を継続させること

その結果として全体に占める比率が上がってきた生産年齢人口に対して就業の機会を与えること

その二○一○年版データによると、『通商白書』の定義による年間世帯可処分所得五○○○~三万五○○○ドル(名目ドル)の「中間層」は、インドネシアで二○一○年に総人口の四八%(一億一四一六万人)であり、二○二○年には七七%(二億一七七万人)に拡大する

インドネシアには所得統計がなく、SUSENASでも高所得層の実態はわからない。

ジャボデタベクの人口集積は、アジアのみならず世界的にみても屈指の規模である。世界の大都市ランキングは都市の定義によっていろいろあるが、大都市圏としてみれば、世界最大の日本の一都三県(神奈川・埼玉・千葉)の三五○八万人(二○○九年総務省統計局人口推計)に次ぐ第二位の規模

ジャカルタはマレーシアより少し高く、ジャボデタベク首都圏はタイとほぼ同じ経済水準で

日本の首都圏である一都三県には総人口の二七・五%、名目GDPの三一・七%が集中している(二○○九年)。一極集中型として知られるタイの場合は、バンコク首都圏に総人口の一八・五%、名目GDPの実に四二・○%が集中している(二○一○年、タイ国家統計局、国家経済社会開発庁)。これに対して、ジャボデタベク首都圏への人口集中度は一一・二%と低く、名目GDPに占める比重も二二・九%

ない。日本の本州の半分強の面積に、日本の総人口を超える人口が密集しているイメージ

スマトラ、カリマンタン、ジャワといった島の間の格差、三三州の間の格差、島や州内の都市部・農村部の間の格差、という三種類の格差を想定し、それぞれが全国的格差をどのくらい説明するかを分析した高橋和志の研究は、都市・農村間、州間、島間の順に説明力が大きい、という結果を得た(Higashikata

教育については、インドネシアの一般庶民も政府も「教育の遅れは我が国の弱点だ。教育こそが明るく豊かな人生をもたらしてくれる」という意識が強い。だからこそ、二○○二年の第四次憲法改正で「国家財政と地方政府財政の少なくとも二○%を教育予算にあてること」を憲法規定として盛り込んだ。

スハルト体制とは、「開発」という大義名分のもとに国民の自由を制限することを正当化した権威主義体制であった。

インドネシア国家の主宰者は国民である。国民は「私の権利は何か」と尋ねるような個人主義ではなく、「大家族の一員としての私の義務は何か」と問うような家族主義によって結ばれている。その大家族の長として国民と一体化し、叡智をもって国民を導くことのできる指導者に、まずは国政をゆだねよう。そして五年に一度、

憲法は国民協議会の議員をどのように選ぶのかを定めていなかったのである。「叡智ある家父長」となった「建国の父」スカルノも、「開発の父」スハルトも、この点をうまく利用した。端的にいえば、自分を選んでくれるイエスマンを国民協議会に送り込む仕組みを作った

スハルト大統領辞任後のインドネシアの政治制度は、まず「スハルト的なるもの」(テーゼ)が全否定され、「スハルト的であらざるもの」(アンチテーゼ)に振り子が振れ、それがもう一度否定されてより高次の制度に止揚(アウフヘーベン)されるといった、弁証法的な進化を遂げた。

憲法の改正は、二○○二年の第四次改正をもって落ち着き、以後二○一一年現在にいたるまで制度の根幹にかかわるような再改正の論議は起きていない。インドネシアの政治体制がそう簡単に揺らぐことのない一つの制度的均衡点に達したとみる所以

インドネシアという国は、各地の多種多様な民族がオランダを共通の敵として共に闘ったというその歴史的事実を唯一の根拠として誕生した国家である。

インドネシアの外交戦略に特徴的なのは、特定の大国の影響下に入らない、二大グループのいずれにも与しない、という思考法

インドネシアが最も嫌うのは、踏み絵を迫るような外交上の選択だ。

中国政府が欠席を呼びかけた、人権活動家劉暁波への二○一○年ノーベル平和賞の授賞式に、駐スウェーデン・インドネシア大使は「たまたま」本国に所用があるために出席しなかった。

スハルト時代には、毎年の国家予算にGDP比で九%(一九九○~九六年平均)

政府のインフラ投資はGDP比で三%(一九九九~二○○九年平均)にまで減少

同じ官民一体型でも、走りながら調整を重ねる中国と、走るかどうかをまず考える日本との差は

輸出構造は、その国の売れ筋ラインナップを映し出す鏡である。インドネシアの輸出は、一九七○年代から一九八○年代初めまで七~八割が原油だった(図4-3)。典型的な産油国型の輸出構造である。だが、一九八○~九○年代、わずか五%(一九八二年)だった工業製品のシェアが五九%(二○○○年)にまで拡大した。インドネシアはみごとに新興工業国型に輸出構造を転換することに成功した。

総人口に占める生産年齢人口の比率が上がると、第一に、労働の投入量が増え、成長を促進する。第二に、所得を手にする人口が増え、貯蓄率が上がる。貯蓄が投資に回って資本の蓄積量が増加し、成長が促される。第三に、出生率が低下すると子供一人当たりにかける教育投資や保健衛生サービスが増える。就業者の教育や健康状態が改善され、技術などの生産性が向上して成長を後押しする。

ない。インドネシア国軍は、農村社会と一体になってゲリラ戦を闘った対オランダ独立闘争のなかから生まれた。その生い立ちからして国軍は、戦闘状態に備えて社会を管理するという機能をもった存在だったのだ。

軍人は、少なくとも現役の間は、政治にいっさい関与できなくなった。内閣に占める国軍出身者の比率は、スハルト時代の平均三三%からスハルト後には平均一三%に低下した。

インドネシアでは、権力と財力の所在が分離しているのがこれまでの基本的な構図

フィリピンでは、政治権力の背後に富の源泉である大土地所有制があった。大地主層が地方の政治権力を掌握し、さらに中央政界へと進出して、財力に裏打ちされた政治エリートとなるのが代表的な出世街道であった。  

基本政策」によって華人は、経済活動に特化する限り身分の安全と保障を得た

インドネシアにおける権力と財力との分離は、プリブミと華人とが融合していないこの国の事情に深く関係している。

スハルトは、好景気になるとテクノローグを後押しし、景気が悪化すると経済テクノクラートに治療をゆだねるというふうに、状況に応じて二派をうまく使い分けてきた。

政策形成に影響を与える産業界の代表機関へ、プリブミと華人の融合へ、という変化は、民主化後の経済団体にみる大きな潮流

二○○○年、アブドゥルラフマン・ワヒド大統領はスハルト体制初期に定められた華人規制を撤廃し、文化・社会慣習上の自由を保障した。儒教は、国が公式に認める「宗教(アガマ)」の一つに加えられた。国民が携帯する身分証明カードに非公式につけられていた華人コードは廃止された。

インドフードといえば「インドミー」ブランドで知られるインスタント・ラーメンをまず思い浮かべる。インスタント・ラーメンは日本の発明品だが、インドネシアは、年に二四六億食を生産し一四四億食(二○一○年)を消費する中国に次ぐ大生産・消費国だ。その国内市場の七割を占める世界的メーカーで、中東、アフリカにも輸出しているのがインドフード社

若き大学院生ステラ・エドウィナ・マゴワルの最新の修士論文(二○一○年)を紹介しておこう。彼女は、インドネシア人の日本観を綿密に跡づけ、その変遷を六段階に分けている。①占領者としての日本、②従軍慰安婦を強いた日本、③開発資金提供者としての日本、④先進国としての日本、⑤ハイテク国の日本、⑥ポップ文化の日本、

長期的に一人当たりGDP水準の差が縮まっていくとすれば、インドネシアの経済規模はやがてタイの三倍以上になり、ベトナムには追い上げられたとしても二倍以上を維持する計算

インドネシアは、中国やインドと違って二桁成長はしない。年平均七・○%だった権威主義体制下での二○世紀型の経済成長を参照軸にすると、人口ボーナスの効果を引き出しつつ、民主主義と二一世紀型課題にともなう制約のもとで実現できる成長ペースは、年平均六~七%とみるのが妥当なところだろう。その水準の成長を持続できれば、インドネシアの大国性は充分に活きてくる。

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