【本】17149『オックスフォードからの警鐘 グローバル化時代の大学論』苅谷剛彦

投稿者: | 2017-12-30

日本の大学は言語の壁によって、「学生市場、教員市場、資金市場」などのリアルな市場で英語圏の大学との競争にさらされているわけではないから、カリキュラムの英語化などは必要ない。
むしろ、成果の競争など「想像上の競争の場」での質をあげないと国際競争力はあがらないという指摘。
まあ、仲間内で傷のなめあいしてたら落ちていきますよね。

イギリスでもアメリカでも、大学のほうが近代国家よりも先に成立しているのです。オックスフォード大学やケンブリッジ大学、いわゆるオックスブリッジの成立は、それぞれ12、13世紀ごろとされています。イングランドがスコットランドと同君連合となるのは1603年、合邦しグレートブリテン王国となるのはその約100年後のことです。アメリカでも、ハーバード大学などの設立は、独立以前にさかのぼる。

国家が先にあり、西洋へのキャッチアップ、近代国家体制の整備という目的を達成するための機関として、日本の大学は誕生したのです。

理工系のように、学問成果が英語で発表されるのを常とする研究分野を除けば、教育の質にしても、学生の達成度にしてもグローバルな評価の目にさらされることはない。従って、誰かがグローバルなランキングをつくっても、それが日本の大学市場(学生市場、教員市場、資金市場)に深刻な影響を及ぼすことはない。英語圏のような「リアルな」競争の場にさらされずにすんでいる

日本語という壁によって守られている日本の諸市場(労働市場、大学教育市場、製品市場=1億を数える日本語に習熟した人口がつくり出す市場の規模がこれら国内市場を可能にしている)を前提にすれば、こうした想像上の競争の場での質を高めることで、結果的に日本の国際競争力(経済、科学技術、政治や外交など)を高めることにつながる

いまの日本の大学は、必要に迫られるリアルな競争と、不必要なそれとの区別ができていない。そこに混乱と非効率な資源配分を生む問題の芽がある。

このように、日本の大学と国家とのパワーバランスが、後者の側に傾きつつある背景には、大学の財政基盤が欧米の有力大学に比べ盤石ではないことに加え、社会からの信頼基盤の弱さもある

国家とのパワーバランスにおいて、大学は「社会」を味方につけなければ有利な地歩を得られない。

彼は名門私学イートン校を卒業した後、ヨーク大学で学んだ。そして自分を含め、イギリスで大学教育を終えた人びとを「どこにでも行ける者たち(Anywhere)」と呼ぶ。他方、大学教育を受ける機会のなかった人びとを「どこかに留まる者たち(Somewhere)」として区別する。生きる場所の選択肢と重なる学歴の違いが、EU離脱をめぐる反対派と賛成派の分断となって表れたというのである。

学力による序列化は起きても、その他の文化的背景や体験の違いを持った学生集団が混合することにはならない。多文化状態による教育力が日本の大学には欠けている。

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