【本】16031 「平穏死」のすすめ by 石飛幸三

投稿者: | 2016-03-30

筆者は、特別養護老人ホームに常勤として勤務する医師。
特養に常勤医として勤務する人は相当珍しい。
自身の経験をもとに、胃ろうの意義、施設での看取りについて詳細に記載されている。

“一般の人に当てはまる常識的な医療は、穏やかな看取りが行われるべき高齢者には当てはまらない。超高齢の寝たきりの方が必要とするエネルギー量は、一般的に提唱されているものよりかなり少ないのではないか”
高齢者に適切な水分量、栄養量についてエビデンスがないというのは賛成だ。
何も理解がないと、通常の輸液を続けることになり、結果として心不全や全身浮腫をつくる結果になる。

“本人も家族も六割近くがホームでの看取りを希望されているのに、実際には八割が病院で亡くなっている”
施設での看取りについては、難しい。
筆者がいる施設のように常勤医がいれば、「責任を医師がとる」と言えば看取りは可能だろう。
実際に、筆者はそのように言っているようだ。

しかし、常勤医がいない施設であれば、「家族に治療放棄と思われたら」「訴訟になったら」などの心配から救急要請を行って病院に搬送してしまう。これは仕方ないのではないか。
病院の救急医に「いまさら何をするのですか」と筆者は言われた経験があるそうだが、その判断を下すのは誰なのか。
少なくとも施設職員が自らの責任でその判断を下したいとは思わないだろう。

“ホームで看取るということが、何もしてあげられなかったという負の気持ちに、家族ばかりかホームの職員までもを追い込んでしまうのです。病院で亡くなれば、最後まで手を尽くそうとしたと言うことができます”
「手を尽くそうとした」というためだけの救急搬送。
この社会コストが見合うかどうかはわからないが、患者家族の満足度を考えると、現時点での施設方針としては仕方ないだろう。

終末期医療に関しては、医療費の問題を抜きにすれば、患者、患者家族の価値観に沿った方針を医療者側が提供するのが本筋だろう。
そこには一般的な正解はない。
最近は、胃ろうに対して否定的な風潮が強いが、中心静脈栄養に関してはまだである。
本質的には両者は一緒なのに。
むしろ、介護施設への退院が困難になる分、中心静脈栄養の方が厄介な側面もある。

厚労省のやり方に対して、
“経済的なインセンティブを武器として、すなわち利益誘導で、医療をコントロールしようとしている場合が多すぎる”
まったく同感だ。診療報酬が変わっても文化は変わらない。
結局、患者の(本当の意味での)利益と病院の利益で板挟みになる医師が増えるだけだ。

海外の例も少し書いてある。
高齢により経口摂取ができなくなったら、自己決定権の観点から食事介助もしない。当然経管栄養もしない。
この方針であれば、当然寝たきり高齢者の数は減らすことが可能だろう。
しかし、それが日本で可能かは疑わしい。

胃ろうが、認知症高齢者には推奨されない根拠として紹介されている論文は以下。
http://jama.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=1030671

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