「相手国の文化に合わせると売れる」というが、その「文化」とはなんぞや、という話。
制度なのか無意識なのか気候なのか…、結局相手がどう感じるか反応をみて柔軟に変えるのが良さそう。
進出当初こそ標準化と適応化のバランスを探るものの、思うような成果を出せず、次第に現地適応化の方に大きく傾いていくパターンが多い。
外見を一切変えなくても、消費者に対して「電灯代わり」という意味を強調したマーケティングを行えば、それで大きな市場が拓ける場合もある。これは、外見的には標準化であっても、意味づけの次元では現地市場への適応化が行われたこととなる。 筆者は、国際マーケティングの現場が求めているのは、実はこのような意味づけの次元での標準化─適応化問題の研究ではないかと
二〇〇四年のデング熱の大流行を過ぎたころから、脱水症状のシーン全般に効果がある飲料としてポカリスエットが消費者の間で意味づけられていった。そもそもインドネシアで、脱水症状を引き起こしているシーンは、デング熱だけではなかった。むしろ、最も多くの人々が経験する脱水症状は、イスラム教のラマダン時の脱水症状シーンであった。
日本とまったく同じ商品であっても、その商品が価値を発揮するシーン(商品を意味づけるシーン)を変えて(現地化して)やるだけで、買わずにはいられない商品となることである。これは見た目では確認できない現地適応化でもある。
カウンターこそが吉野家の象徴だと信じていた日本人スタッフが、実はそれが客足が伸びない要因の一つになっていることに気づくまでには、五年の時間が必要であった。
中国であれ東南アジアであれ、欧米であれ、多くの海外市場では、「ラーメンはスープだ」という意味づけがなされることが多い。その場合は、スープが主役なのであって、麺は脇役にすぎない。スープだけ飲み干して麺を残す客が多いのは、このような理由から
中国では病気になること自体が日本と比べるとはるかに面倒な事態であり、心理的・費用的な負担が非常に大きいのである。
商品自体の効用(価値)や販売手法の効果は進出先市場の社会の仕組みによって左右される、ということである。
大量買いをしている人々は、一見すると家族連れで来ている人もいるのだが、その九五パーセント超が周辺の農村部にある零細小売店(雑貨店)や飲食店などの経営者であることが分かったのである。要するに、店の商品や食材の「現金仕入れ」に来ていたのだった。
そもそも途上国では、地方の小売業、とくによろずや的な村の零細小売店は、商品をどこから仕入れるのかが、経営上の最大の問題となっている。
商品の仕入れ先を店主に尋ねると、近くの町の卸売市場に出向いて仕入れるか、トラックで巡回してくる業者から買う(仕入れる)かの二通りしかないという(中には近くの町の大き目の小売店から「仕入れ」ているケースもあるが)。
コカ・コーラ、歯磨き粉のコルゲート、洗剤・石やスキンケアなどのユニリーバといった消費財のグローバル企業は、地方ごとにトラックで雑貨店などを巡回して商品を卸売りしている。
もう少し具体的に述べるなら、市場に存在する多様な要因には、先述のように人口構造、都市計画、不動産環境(価格や取引慣行)、住宅の広さ・構造、社会制度、法律・法的規制、教育制度、税制、交通インフラの整備度、物流システム、所得水準などの社会的なファクターと、その基盤となる気候環境や国土条件が挙げられる。もちろん、どのような要因が絡むのかは商品やビジネスモデルの特性によって変わるが、いずれにせよ、それらが複雑に絡み合ったもの(構造)が一つのフィルターとして機能し、海外から入ってくる商品やビジネスモデルを受容するか拒絶するかを決めている
一点目は、フィルター構造を構成する社会的要因は、それぞれが時と共に変化するため、フィルター構造も常に変動している動態的、あるいは有機体的な存在であることだ。
二点目は、それら多様な要因の「すべて」が「等しく」影響を及ぼすとは限らないことである。
三点目は、これが最も重要なのであるが、フィルター構造論は「制度化された社会の仕組み」を重視していることである。消費者の曖昧な感覚や嗜好ではなく、より明確に捉えられる要因に着目しているのである。いわゆる文化論や心理的な影響とは一線を画している点に特徴があるのだ。
安全な商品(つまり結果)を重視する日本の消費者と、製造過程の安全性を確認できること(つまりプロセス)を重視するアジアの消費者との発想の違い
アジア市場では、熱帯地域に行くほど、自分の目ですべてが確認できること、自分でリスクを判断できることが、「安全」という意味づけにとって重要なカギを握る。
企業や店自体の信頼が重要な日本という市場と、消費者の判断材料が適正に示されることが安心と企業の信頼につながるアジア市場との違い
ベトナムでは実際の所得基準では五五パーセントしか中間層として識別できないにもかかわらず、なんと九六パーセントもの人々が自分を中間層だと意識している
特定の社会階級の人々が特定の商品に「ステイタス・シンボル」「自らの豊かさを実感できるもの」「豊かさを他人に誇示できるもの」といったポジティブな意味づけを行い、一斉に購入する現象である。
ピアノは普及率が二五パーセントに達すると中古市場が形成されて売れなくなっていくことは、米国の経験からも明らか
消費は飽和したわけでも、個性化したわけでもなく、画一的な大衆消費から金融資産による階層集団ごとの消費(小沢は「階層消費」と呼んだ)へ構造変化したというのである。
今後はアジア各地の中間層内部の多様な消費集団に光をあて、集団ごとの意味づけの違いを捉える必要がある
所得はともかく、支出の配分を引き寄せるだけの意味と価値を現地の消費者に提示することが企業側の課題なのである。その意味では、「所得が低いから市場が存在しなかった」などというのは、最も無意味な言い訳
日本の自動車ローン利用率は二、三割とされているが、たとえばタイでは八割を超える(
ある。 しかし、このような中間層による市場拡大は、他方で中間層の家計債務を増大させる結果を生んできた。
「所得の増大」がどのようなプロセスで「消費の拡大」につながるのか、その二つの現象(事実)をつなぐ論
まずは「文化」という言葉で示される内容の整理をすべ
通常「文化」と表現されているものは、この図のように四つの階層から捉えることができると考えられる
四つの階層性の存在は、多様な文化要因を分類して捉える必要性だけではなく、一つの文化要因を四つの階層視角(次元)から捉えて検討する必要性があることも示唆している。たとえば、イスラム教における食のハラール規制を考えてみよう。ハラール規制については、日本人は第一層のイスラム法で決められたルール(認証機関によるルール)だけを絶対的なものと考えがちである。しかし、他の階層から捉えると、そうとも限らないことが見えてくる。第二層の慣習のレベルでハラール問題を捉えると、地域によって慣習的にその許容範囲が異なることもある。また、海外滞在中はハラールを完全に守れなくても仕方がないという暗黙の了解も人々の間で共有されている(第三層)。さらに、最終的にどこまで厳格にハラールを守るのかは、第四層の各自の規範感覚に委ねられている。この規範感覚は個人の感覚に依拠している部分もあるが、各市場ごとに共有されている感覚に依拠している部分が存在することが重要となる。第四層では、まさにこのような社会で共有された規範感覚に注目しなければならない