【本】17024『教養としての宗教入門 基礎から学べる信仰と文化』中村圭志

投稿者: | 2017-02-04

イスラム教の教えはそもそも生活に即しているため、法制度などを内包しており、近代国家の法制度との相性がよくない。
アラブの春が民主化に至らず、カリフ制の復活など懐古主義に向かったのは、このことが大きいだろう。佐藤優などは、イスラム教圏での民主主義はほぼ無理だ、と言っている。

日本人の宗教観は、東アジア共通のものらしい。
横山禎徳先生などは、日本の仏教はインドから中国を経て入ってきたときに、道教・儒教と混じったと指摘している。
したがって、先祖崇拝・墓など儒教的要素を含んだ儀式が行われている。(仏教では輪廻するため、先祖を崇拝しない)

とはいえ、他の地域からみれば特殊であることは間違いない。
したがって、一神教の国で「日本は何教なの?」と聞かれると「仏教です」と応じるのが無難であることは間違いない。
宗教観の希薄化はグローバルな現象ではあるが、それでも無宗教だと知られると、自らの宗教に勧誘され、余計な迷惑を被ることになる。

デーヴァもまた釈迦から教えてもらう立場である。だから仏教のロジックにおいては、ブッダはデーヴァより格が上である。Buddha は god より、仏は神より格が上

今日のヒンドゥー教ではシヴァ神と並んでヴィシュヌ神の信仰が盛んであるが、このヴィシュヌ神(仏教風に言えば毘紐天)の化身のひとつがブッダということになっている。つまり Buddha は god の化身のひとつ

ユダヤ教徒は、戒律をどこまで守れるかという修行に挑戦しているのであり、キリスト教徒は、キリストにどこまで自分を委ねられるかという修行に挑戦しているのである。

イスラム教徒のやっていることは、半分はユダヤ教徒に近く、半分はキリスト教徒に近い。

拝む。また、ヒンドゥー教の神々も、仏法の守護者と解釈して拝んでしまう。帝釈天、毘沙門天、弁才天、吉祥天など「天」のつく存在はみな、ヒンドゥー系の神

呪術の効果には、個人的気休めとか社会的団結といった要素も含まれる。そして人間にとってはそれが案外に重要な効果

ヒンドゥー教にはマヌ法典という古典的な宗教的法典によって正当化された身分制度(いわゆるカースト制)なるものがあったが、近現代ではこれは不合理かつ、とくにヒンドゥーの本質と関係のないものとして解体されることになった。こういう努力は必要である。

宗教のおもしろいところだが、建前からすると、世界の歴史を天地創造の神の物語と見ているキリスト教やイスラム教などと、人間の悟りや安心立命に焦点を置き、創造神については一切触れない仏教などとは、論理的にまるで噛み合わない思想体系であるはずなのに、全体像を眺めてみると、やっぱり相互に似ている。いずれも信者を救うものであるし、いずこの信者も拝んだり祈ったり似たようなことをしている。  乱暴な比喩だが、宗教というのはバラエティ番組みたいなものであり、歌と踊りを中心にしていようと、クイズ形式になっていようと、ニュース報道を軸にしていようと、結局のところ視聴者に提供しているものに大差はない、というようなところがある。別の不謹慎な比喩を用いると、歴史の古い宗教は、繊維会社、自動車工場、食品販売等々から出発して、いつの間にか何でもやり出すようになった多角経営の大企業みたいなところをもっている。

東洋ではふつう、身体的振る舞いが精神を形作り、集団の慣行が個人を育むということをもっと強調する。この点でイスラム教徒の人間観は東洋的なのである。

現代社会のシステム――それは資本主義、テクノロジー、個人主義等々の現代的価値より出来上がっている――は、何がしか人間からゆったりとした時間を奪い、人間をシステムの歯車にしつつある。そうだからこそ、それとは原理を異にする宗教的ライフスタイルを求める人たちが跡を絶たないのだ。しかし、まさしく資本主義などのシステムが今日の強力なリアリティになっているために、いくら宗教的なライフスタイルを維持しようとしても、穴だらけのものにならざるを得ない

ユダヤ人の信仰には特徴があって、霊魂とか、死後の生とか、天国と地獄の構造とか、救済の神学とか、そういう観念的な議論――いわゆる形而上学――には比較的冷淡である。

ユダヤ教徒が重視するのは、祖先から受け継いださまざまな規則をまじめに守っていくこと

規則や儀礼に満ちた生活は窮屈に思われるかもしれないが、信仰や悟りのような精神性にこだわるキリスト教や仏教よりも、年中行事や境内の掃除などを重んじる神道の感覚に、意外に近いところがある。

キリスト教は、規則に対してひとつ捻ったアプローチのしかたをしている。基本的モチーフは、「人間は規則主義に耐えられない」というものである。

イスラム教徒は、聖書中の重要人物を預言者として尊び、ムハンマドを最後に現われた最新にして最強の決定版預言者と考えている。彼らが数え上げる預言者の中には、エデンの園のアダム(アラビア語の発音ではアーダム)も、ユダヤの族長のアブラハム(イブラーヒーム)も、神から十戒を授かったモーセ(ムーサー)も、キリスト教の福音を告げたイエス(イーサー)も入っている。

イスラム教は、建前としては、近代国家の法制度のまるまる全体に匹敵する一個のシステム

西洋のラテン文字も、ロシア文字も、中東のヘブライ文字やアラビア文字も、インドから東南アジアにかけて二十種ほどもある文字システムも、系譜を遡るとすべてエジプト文字に行きつく。これに対して東アジアは「漢字文化圏」である。漢字はエジプト文字とは無関係に誕生した甲骨文字の子孫だ。日本の仮名やベトナムの旧文字体系(チュノム)は漢字の変形もしくは崩しである。

というわけで、文字において孤立している東アジアは、宗教においても孤立の度合いが大きい。この地域の心と社会をリードしてきたのは儒教である。これは、釈迦より百年近く前の人間である孔子が開いたものだ。他方、民間の神々の信仰が、紀元二世紀頃から道教として組織されるようになる。

日本のサムライの儒教は「忠」に力点を置いているが、中国や韓国ではもっと家庭主義的であって「孝」のほうが大事である。

日本人は自らを「無宗教」と認識しているが、東アジア全体の伝統を見渡せば、日本の宗教的感性の曖昧さが決して特異なものではない

天皇家は仏教輸入のスポンサーであるが、その天皇家を権威づけるためには、土着の神話を天皇家向けに整備する必要があった

神の本体をブッダと解釈するロジックのことを、本地垂迹説

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