【本】16146『ビジネスエリートの新論語』司馬遼太郎

投稿者: | 2016-12-31

サラリーマンについて、司馬遼太郎が語った一冊。
封建時代の武士や、徳川家康に例えながら語るのは面白い。

当時の社会保障制度について、「国家がやるべき仕事を家庭におしつけている」と批判しているのは面白い。現代はまさに、そうなっている。

“戦国の三傑をみると、まず秀吉はサラリーマンにとってほとんど参考にすべき点がない。彼はいわば、身、貧より起しての立志美談型なのだ。前田久吉、松下幸之助あたりの系列だから、サラリーマンとは人生のコースが最初からちがう。”

“信長が経た人生のスタイルも、サラリーマンには有縁のものではない。いわば彼は社長の御曹子なのだ。大学を出るなり親の会社を継いで、奇略縦横、ついに十倍のスケールに仕上げるという鬼ッ子なのである。雇われ者の経験は、一時間もしたことがない。”

“まずまず公約だけは口をそろえて社会保障制度を合唱している。が、実際政策面では、その点、まだ原始時代から数歩も出ていない。  まったくのはなし、徳川時代とほとんど変りばえがせず、家族制度という奇妙なジャングルにシワヨセすることによって問題がゴマかされている。”

“国家がやる仕事のほとんどを、〝家族〟というホネとカワに瘦せきった小集団が、壮烈果敢にも無償で請け負っているわけだ。”

“忠義のためなら、子をも殺し、友をも売るというのが、武士という封建サラリーマン社会の倫理であった。武士道には、多くの無惨で利己的な要素がこびりついている。ただオノレの食禄や領地がほしいばっかりに、恩もウラミもない敵兵を殺戮するわけだ。昔の戦記物語を読めば、武士道のアサマシサが骨身にしみてわかる。仇討にしたってそうだ。親孝行でも武士の面目でも、何でもありはしない。親や兄が殺されると、トノサマから仇討免許状なる手形をもらい、全国くまなく歩きまわる。探ねたずねて、十年または生涯の日子をかける場合もすくなくはない。十年も親のカタキを憎めるなどは、よほど憎悪心のつよい、いわば当今、そんなのが周囲にいたとすれば、まず交際いたくない手合いである。普通の神経なら、とっくに憎悪の感情がうすれてしまっている。憎くもない者を殺すのだ。脊筋の寒くなるような非情さである。なぜ仇討マンたちは非情な殺人意思をすてなかったか、それはいつにかかって生活問題なのである。カタキを殺して帰らねば、自分の家がとりつぶされるシクミになっているからだ。家禄という無為徒食な生活を取りあげられるからだ。親類にしたって、いい迷惑である。その男の家がツブされれば、眷族を自分たちで養わねばならない。だから伯父貴が仇討を手伝ったり、姉ムコが助太刀を買ったりするわけである。武士道とは世にもスサまじいエゴイズムなのだが、日本ではいまだに大衆小説や浪花節で礼賛され、われわれはその苦心にナミダをながし、その成功にヒザを打っている。”

“死ぬまで働けるような自分を在職中から育てあげるべきだ。在職中の職種による技能が退職後に生かせるようなものなら文句はないけど、でなければ、在職中サラリーマン稼業以外の技能をえいえいと養うべきである。たいていの技能は、いくら片手間の習得でも三十年もやっておれば、立派に専門家になる。”

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